国道沿いにさらに進むとすぐに伊丹市内に入ります。

伊丹市は人口約19万3千人の都市で大阪国際空港を持つ国際都市です。

西宮市と同様に古い酒蔵も有り、ブリューワリーミュージアム(酒の博物館)があります。

この地では、伊丹氏が伊丹城を築城しましたが、その後、荒木村重により落城させられて、伊丹城は織田信長により有岡城と改名させられ、村重の居城とし堅固で有名だったのですが、この城も、こんどは村重が謀反を起こし織田信長に刃向かい、ついに敗れててしまいましたが、その有岡城の跡がJR伊丹の駅前にあります。

旧西国街道は伊丹市の西端、池尻一丁目から、東端の下河原までほぼ伊丹市の真中を東西に斜めに横切っております。

伊丹市内に入るとすぐに師直塚(もろなおづか)が左手にみられます。高師直は足利家の武将で観応2年(1351)この地において滅ぼされましたが、足利家の執事として楠木正成を敗死させるなどの功績がありました。

師直らの没後、この辺りに墓らしき塚が残っていましたが耕作の妨げになると崩され、その後、山田村の有志により現在の塚が建碑され、国道の拡張工事により現在の場所に移されました。(伊丹市教育委員会) 

伊丹市内も西宮市内と同様に伊丹市文化財保存会と伊丹猪名野ライオンズクラブが要所、要所に案内碑を立て、歴史が消え去らないように文化活動を実践されており、心からこの活動に敬意を表したいと思います。

そこからまもなく街道は右に折れ国道171号線を渡り進みます。

街道をはずれますが171号線沿いそのまま進みますと左に朱塗りの昆陽寺の山門がに目に入ります。

伊丹の昆陽寺は僧行基によって天平5年(733)開祖されたとされており、毎年4月の初めには、行基の徳を偲んで昆陽 寺で「行基さん祭り」が開かれ、多くの人達が参詣しています。

その当時の昆陽一帯は「猪名野・笹原」といわれ、田畑や原野 が広がっていましたたが、大雨が降る度に洪水の被害を受けており、行基は自分が勉強した中国や朝鮮から伝わっ た土木技術と、中国や朝鮮からきた技術者の協力でこの地域を整備し、昆陽池を作り、また近くには小さな小屋を作り、旅で困った人達や病気の人達のた めに救済活動をおこないました

昆陽寺の境内には行基の歌碑があり、「山鳥の ほろほろとなく  声きけば 父かとぞ思う 母かとぞ思う」とあり 行基の父や母への思いが伝わってきます。

171号線を渡り、南に進みますと街道は左に曲がり、その先寺本1丁目の左に辻の地蔵さんと呼ばれる道標の付いた地蔵さんと妙見宮の道標があります。

その先には閼伽井(あかい)の井戸があります。
しばらく進みますと街道は再び左に曲がり、再び国道171号線を渡ります。そこから右折して西天神社の前から再び国道171号線を渡り、東へ進みます。

昆陽寺を過ぎ国道を東側に行くと左に西天神が見えます。そこから国道を渡りほぼ国道と平行して進むと昆陽宿跡の案内が左手に見られます。

案内板によりますと天保14年の史料には家敷7軒・人口913人・本陣1軒・旅籠7軒・人馬問屋1ヶ所であったと記されているとのことです。またこの昆陽宿では西の西宮宿、東の瀬川・半町宿までの継ぎ立てを行っていたと記されています。

北の方角には行基の昆陽開発により昆陽施院・昆陽上池・昆陽下池・長江池・中布施屋池・院前池の昆陽野五池が作られ現在も昆陽池と端ケ池が残っています。

昆陽宿跡を過ぎますと左に庚申さんが祀られています。

その先右に蛤門の変で敗走した長州勢が踏みとどまって戦ったと云われる長勢橋の碑が、児童公園の中にあります。

長勢橋を過ぎますと左の道の奥に東天神社があります。

東天神の社殿裏の境内に青面金剛と庚申さんの祠があります。

再び街道に戻り東に進みますと稲野小学校の南門前に出ます。

稲野小学校の南門前に道標が見られます。その道標には「すぐ西宮・すぐ中山/小浜・すぐ京都」などの文字が刻まれています。

ここをさらに進むと僧行基が昆陽上池・下池などを築き、新たに田を開いた際の工事によって生じた犠牲者の「千僧供養」を行った地であることから、名づけられたとの説がある千僧にでます。

街道左手に千僧天神社があります。

ここを過ぎますと左に昔の有馬道と西国街道が交差している大鹿の道標(みちしるべ)を見ることができます。、