連合赤軍の女兵士たちが夢見たもの

―― 戦隊ヒロインについての序論

(最終更新 2011.2.5)

 女兵士は、別に指輪をはめていたから殺されたわけではない。
 そこは戦場なのだ、殺すか殺されるかという戦いが今まさに始まろうとしている時に、ちゃらちゃらした格好をしておれば、怒られるのは当たり前である。――だからといって、そんなことが原因で人殺しが起きるわけがない。
 指輪は、単に、十二人に及ぶ同志殺しのきっかけを作ったというだけのことである。

 1972年に日本中を震撼させた連合赤軍事件。日本に革命を起こすべく立ち上がったはずが、あさま山荘での十日間にわたる警官隊との銃撃戦を繰り広げるその前に、彼らはその戦力の三分の一以上を、山岳基地内での仲間殺しによって失っていたという。
 事の余りの不可解さに、世間は当初、異常性格者が起こした異常な事件だと決めつけて片付けようとした。あるいは集団ヒステリーだとかカルシウム不足だとか、とにかく異常心理によって引き起こされたのだと。しかしさすがに事件から四十年もたてば、研究も蓄積されてくる。さまざまな要因が複雑にからみあった上で起こった事件だということも次第に明らかになっていった。
 要因の一つとして挙げられているのが、「女兵士」という問題である。
 連合赤軍というのは、赤軍派と革命左派という二つの党派が合体して生まれたものである。この両派が山梨の山中で初めて合同軍事訓練をもったとき、赤軍派からただ一人参加した女性の指に、宝石が光っているのを革命左派が見咎めたのが、ことのおこりである。
 実際、彼女は非合法活動の経験などなく、革命家としての警戒心を欠いた行動が多々見られたというのは事実であったらしい。じゃあなんでそんな人が山岳ベースにいたのか。彼女の夫は当時獄中にいた最高幹部の一人であって、彼女の態度に問題があっても、他の赤軍派の兵士はリーダーを含めて誰一人、注意などできなかったのである。
 赤軍派にはそもそも女の兵士という概念がなかった。
 戦いは男の仕事である。それは、ベトナム反戦運動・全共闘運動が高揚を迎えた1960年代末の「叛乱の時代」においてもそうであった。男たちが敵とぶつかり、救護や救対などの任務について男たちの戦いを「銃後」で支えるのが女の役割だ、というのが当時の常識であった。活動家の間における、男尊女卑の風潮は一般社会以上とも言われ、赤軍派は単にそれに従っただけだ。だがこれを、女性差別に対する当時の左翼の意識の低さと片付けてしまえるかというと、話はもう少し複雑である。
 運動が盛り上がれば、それを力ずくで押さえつけようとする国家権力との攻防も激しさを増す。集会やデモも、機動隊に殴られ重傷を負うことを覚悟することなしには参加することも困難になっていく。それは全共闘の女子学生たちにとっては、むしろ望むところではあった。女は女らしくすべきという、既成の社会秩序から受けてきた抑圧から解放され、自らの意志で主体的に生きるという夢を、機動隊の警棒やジュラルミンの大盾を前にして彼女たちは見ていたのだから。
 ところがそれは同時に、活動家の間での女性の立場を弱くするものでもあった。むきだしの暴力が場を支配するに従って、腕力に劣る女は男の足手まといにならざるをえなくなっていく。別にデモや集会だけが活動ではなく、ビラを書いたり新人をオルグしたりするのも重要な任務であるのだが、しかし、最も危険な、最も身体を張ってぶつからなければならない局面において「女の子は危ないから下がっていろ」と言われることは、彼女たちの活動の根本意義を失わせるものであった。赤軍派を含め当時のセクトは、この矛盾を止揚する理論を新たに生み出すこともできず、女子たちは二級の活動家としての立場に甘んじるか、あるいは失望して活動から去っていくしかなかった。
 革命左派が例外だったのである。もともと発足時から「婦人解放」をかかげるような団体ではあったが、女性である永田洋子がリーダーになってからは、党内で痴漢行為などがあれば厳正に処分を下していた。これなど当時の他の党派であっては、考えられないことであっただろう。女性の比率も高く、先述の合同軍事訓練の参加者も男女半々であった。
 だがその革命左派にして、女性解放に関して何か独自の理論を持っていたわけではない。男以上にがんばること、それだけであった。男並みになろうと思えば、女は男の二倍も三倍も努力しなければならない、そのことによって女性は解放される。現に彼女はそうやってリーダーの座を守り、またメンバーの他の女性に対してもそうすることを求めた。そんな彼女たちであればこそ、赤軍派の女兵士の振る舞いは許せないものと目に映った。
 指輪をはめて戦場に来るなど確かに非常識ではある。指輪ぐらいはずせばいい。しかし、じゃあどこまで行けば兵士として問題ないレベルと言えるのか。化粧をしている、髪の毛が長い、しゃべり方が男に媚びるよう……。「女らしさ」を感じさせる仕草、言葉遣い、あげくは容姿に至るまで一切がブルジョア的思想の残滓と見なされ、それらを総括して点検し、払拭せねば革命戦士にはなれないとされた。しかしこれでは際限がなくなってしまうではないか。どんなにがんばったところで、女が女でなくなることはできないのだから。
 そしてそれは以後「共産主義化」の理論へとエスカレートしていく。男も女も死に物狂いで過去を点検し反省するよう求められ、仲間はそれを援助するために殴る。そして瑣末な言葉尻をとらえては、死ぬまでリンチするという事態が続く。いわゆる「総括」である。それは十二名の命を奪うまで止まることはなかった。
 もちろん、そのようなエスカレートに歯止めが利かなくなったということは、もとから彼らの革命理論や党派の体質に問題があったからであって、連合赤軍の全員が男であったとしても、やはり似たような末路を迎えた可能性は大いにある。しかしそれらの問題点は男同士であれば、なあなあでごまかしてやり過ごせるようなものであったかもしれない。戦いは男のロマンであり、男の論理によって貫かれるものという前提が彼らにはあった。そこに女兵士という異物を抱え込むことによって、矛盾は露呈を早めたということは言える。
 ではその矛盾とは何か。
 理想と正義を求め、世の中を変えようと革命運動に身をささげたはずの彼らは、仲間殺しという、かくも悲惨で愚かしい結末を迎えた。連合赤軍事件を教訓にし、同じ過ちを繰り返さないためには、その矛盾点についてきちんと考える必要があった。だがそうはならなかった。日本社会が彼らを異常性格者として片付けようとしたことについては冒頭に述べたとおりだ。なぜか。
 世の中を変える必要がなくなったからである。
 1972年は、日本という国において体制変革運動が息の根を止められた年である。もちろん、労働運動や住民運動などはなお盛んであったし、新左翼が陰惨な内ゲバ殺人へ邁進し自滅していく一方で、日本共産党は1980年代に全盛期を迎える。しかしそれらは体制内の改良闘争であって、体制自体の変革ではない。戦後日本の保守政権は一貫してアメリカの言いなりであったし、ベトナム戦争では米軍に基地を貸し彼の地の人民の虐殺に協力した。しかしそのおかげで、ベトナム戦争特需がもたらされ、日本は空前の経済発展を遂げた。人々は豊かな暮らしを手に入れ満足している。そして漏れ伝わる社会主義国の経済停滞や人権抑圧の実態。確かに公害による国土破壊や、沖縄に集中する米軍基地の負担など、問題は山積していたが、その程度のことでせっかく手に入れた繁栄を手放すなど考えられなかった。
 女性解放運動もそれらと歩を一にした。
 身も蓋もない言い方をすれば、アジア人民の搾取の上に繁栄をむさぼっている日本の資本主義社会、そこに私たち女も平等に加わらせろ、というのがフェミニズムの主張になった。女性の社会参加、非常にけっこうなことである。そして女たちはもっとたくさん働き、もっとたくさん消費せよと、高度産業社会に組み込まれ、そこで自己実現をはかるように仕向けられていく。それではあまりにも格好がつかないと思ったフェミニストたちは、「男社会を変える」とか言うなどして反体制的な姿勢を気取ろうとした。しかしどのような社会を理想としてイメージしているのかについて、具体的に語った人は誰もいない。
 物質的には豊かになる一方で、心の問題は忘れ去られたように見えた。全共闘の女子学生たちが機動隊の盾を前にスクラムを組みつつ、おびえながらも感じていた高揚感、自分の運命を自分の手で握るために戦うという、バリケードの中で見ていた夢を、見る人はもう誰もいなくなったのだろうか?
 政治活動のような表舞台からは姿を消しはしたが、学問や文学のモチーフなど、目立たないところではいろいろ続いていた。そしてその一つがサブカルチャーの分野である。
 1972年という年はまた、特撮やアニメにおける女戦士のカンブリア大爆発が始まった年でもある。『科学忍者隊ガッチャマン』の白鳥のジュン(1972年)、『キューティーハニー』の如月ハニー(1973年)、『秘密戦隊ゴレンジャー』のペギー松山(1975年)、『超電磁ロボ コン・バトラーV』の南原ちずる(1976年)。それまでも女戦士が存在しないわけではなかったが、女が戦力の一員としての扱いを受けるのはこの時期からである。それが1972年だというのは偶然であろうが、男に守ってもらうばかりが女の生き方ではないのではないかという疑問の芽が、社会のあちこちの分野で同時に出始めたということは言えるではないか。
 戦う男と内助の功を尽くす女。性別役割分担には、確かに合理的なところもある。だが、男と女がともに力を合わせて戦うヒーロー物の世界があってもいいのではないか。そのジャンル確立のための最も大きな牽引車的役割を果たしたのが、1975年の『ゴレンジャー』から始まるスーパー戦隊シリーズである。以後わずかな中断の期間を除き、シリーズは新しいヒロイン像を常に追求してきた。とはいうものの、「戦いは男の仕事」という概念を覆そうという狙いが最初からあったわけではない。当初戦隊のピンクはあくまでも「男の役割をする女」であった。
 変化が訪れたのは1982年である。元全共闘がメディアの送り手としてそろそろ登場し始めた年であり、戦隊シリーズもメイン脚本家が交代して曽田博久氏が就任する。戦隊ヒロインは「男の役割をする女」である以上、「かっこいい」とは言われても、「かわいい」と言われることなどありえない。それこそ「総括」ものである。それが言われたのある、シリーズ第六作『大戦隊ゴーグルファイブ』のゴーグルピンク・桃園ミキの登場によって。そして戦隊シリーズが当初から孕んでいた問題点、「戦いは男の仕事」という建前によって見えなくさせられていたものが、ついに形をとって現れ始めた。そしてそれは、あの時代、雪深き群馬の山中で仲間を殺し、あるいは仲間から殺された女兵士たちが夢見、そして最後に彼女たちを破滅へと導いたものの正体を見極める思考の旅の始まりでもあった。
 連合赤軍事件からちょうど十年後のことである。