戦隊史学基礎(理論編)

―― 戦隊シリーズはどのように歪められてきたか

(最終更新 2014.9.1)

1.戦隊の本質は本当にチームワークか

戦隊マップ1  「ひとりじゃかなわないけど、なかまとちからをあわせて、わるいやつらをやっつける」
 などと、スーパー戦隊シリーズの公式サイトに書いてある。なんというか、これがつまり東映の公式見解ということらしい。
 東映特撮のプロデューサーたちも、スーパー戦隊についてインタビューで聞かれると、やたらと「一人一人は弱い」ことを強調する。自社製品について事実とは異なるイメージを、プラスの方向へと流そうとする人なら珍しくもないが、マイナスの方向へと流そうとするとは一体どういうことだ。自分と自分の先輩たちが、長年精魂を込めて育てあげてきたシリーズについて、一体この人たちは何を考えているのだろうか。
 嘘はついてない、と言うかもしれない。しかし嘘をつかずとも、事実を作為的に取捨選択することによって、実態から離れたイメージを作り上げることはできる。それは嘘をつくのと実質的に同じことである。
 スーパー戦隊シリーズの三十余年の歴史は、常に二つの柱に支えられてきた。一つがチームワークであり、もう一つが戦士一人一人の、自立した個人としての力である。別の言い方をすると、規律と自由ということになる。この二つは不可分の関係にあり、片方だけを取り出して論じることはできない。戦隊シリーズの本質はチームワーク(=規律)である、などという言い方は、だから確かに間違ってはいないにせよ、戦隊のイメージを大きく歪める行為には違いないのである。
 東映特撮の二大スターは、スーパー戦隊と仮面ライダーである。仮面ライダーには自由のために戦う孤独なヒーロー、というイメージを前面に押し出してブランドバリューを維持してきたという長年の歴史がある。それとの兼ね合いなのだろうか。だとしたら勝手な話である。仮面ライダーが自由を看板にするのなら、スーパー戦隊の看板は自由と規律の二枚である。だいたい仮面ライダーは昔は休止期間ばかりだったではないか。
 戦隊の作風は多様である。組織の力が大きく個人の力が小さい戦隊もあれば、その逆に個人の力が大きく組織の力が小さい戦隊もある。そして、前者のほうが後者よりも戦隊らしい戦隊である、などということは絶対に言えない。
 一人では出来ないことでも、複数の人間が力を合わせれば出来たりする。それ自体は非常にすばらしいことであり、チームの存在意義もまたそこにある。だが、力を合わせれば合わせるほど良いわけでもない。仲間と力を合わせなければ出来ないことがあるのと同じように、一人でなければ出来ないこともある。統率のとれた行動と、バラバラの行動。チームの持つ力を最大限に発揮させるためには、この両者の適切な使い分けこそが必要なのである。
 別に難しい議論を始めようとしているわけではない。何らかの集団に所属している人間であれば、誰もが日常で経験するようなことである。組織マネジメントに関する議論の初歩でもある。
 チームワークは「目的」と「手段」の両方の一致があって成立する概念である。それを、なぜか「目的」だけの一致とみなす勘違いがあるように思われる。それが概念の混乱をもたらしているのではないか。
 人間には誰にも「自分さえ良ければ」という気持ちがある。野球やサッカーでも、チームの勝利よりも自分の個人記録や年俸のほうが大事だと思う選手はいて当然である。そしてチームが勝利を目指すためには、そのような個人の利己主義は克服されねばならない。だがそれだけで即チームプレーが実現するわけではない。スクイズは「次の球でスクイズをする」という考えが、三塁走者と打者との間で共有され、そこで初めて行なわれるものである。単に「勝ちたい」と思っただけでスクイズが決まれば苦労はない。
 「チームの勝利という目的に向かって、メンバー全員の心が一つになる」などと言えば聞こえはいいが、問題はその先である。勝利を目指すにしても、具体的にどのような戦術を用いるかについて、メンバーの間で一致がなければチームワークの実現はない。どうやって一致させるか。そっちの方が難しいのである。
 チームワークを最大限にまで高めたチームというのは、どのような状態を指すのであろうか。「こういう状況においては、こういう行動を起こす」という点においてメンバー全員が全く同じ考えを共有している、というチーム。そこにはメンバーの自主性は一切存在しない。いわば「将棋の駒」である。それは「仲間と力を合わせる」という点においては、ベストの状態のはずである。だがそれはチームの理想の形態と果たして言えるのだろうか?
 確かに、何か事件が起き、チームとして行動を起こそうとする際、いちいち各人の意見をすり合わせる必要がない分、迅速な行動が可能になるかのように思える。しかし実はそこには一つ大きな見落としがある。もともと人間には誰でも自分の意志というものがある。それが初期状態である。だから、そういう「将棋の駒」状態へと移行させようとすれば、そこにコストがかかる。それを計算に入れた場合、そのような戦い方が、本当に効率がいいと一概に言うことはできない。
 だから、たとえば企業などでも、真に効率の良さを求める立場からは、むやみに規律を高めるのではなく、個人の自由をある程度重んじるという方向性での職場づくりが行なわれている。チームワークに限度があるので仕方なく個人の自主性に頼るのではない。個人の自主性を積極的にチームの利益に活用するのである。専門用語ではこれを集中管理/自律分散という。
戦隊マップ・規律 戦隊マップ・自由  何か事件が起きたとする。集中管理型の組織の場合は、「チームの意思」というものを決める必要がある。それは、メンバー全員の意思を単に足し算したものではない。指揮官の命令か、あるいは全員で会議を開くか、とにかく何らかの手段によって、チーム全体の意思を統一させる機関が設置されている。何か事が起これば、各人はそこに事態を報告し、指示を仰いで行動する。このやり取りで時間を食い、情報が劣化するのは避けられない。ただし、全員が統一した行動をとるので、いったん仕事にかかれば能率はよい。それに比べて自律分散システムの場合は、事件が起きれば各人がそれに反応して勝手に行動を起こす。そのために機敏な対処が可能だが、各人が独自に行動するので仕事の能率は悪い。最悪の場合、ある一人が穴を掘り、別の一人がそれを埋めるなどという事態さえ生じかねない。
 つまり、エンジンがかかるまでは遅く、かかってからは早いのと、かかるまでは早く、かかってからは遅いのとの違いである。どちらのほうが効率がいいかという問題ではない。前者のほうが好ましい状況もあれば、後者のほうが好ましい状況もある。二つのシステムを適宜使い分けるのが望ましいのである。
 みんなで力を合わせると何がいいのか。一般にそれは「分業のメリット」と呼ばれる。そこでは各自が一芸に秀でたスペシャリストであればよい。パワーはないが敏捷性に長けているとか、水中戦だけは得意であるとか、自分の得意な分野の才能だけ磨いていればいいというのは大変な利点である。ただし、それが有効に機能するには、全員の戦いのスタイルが一致していなくてはならない。その点自律分散システムのほうは、各自が自分の得意とするスタイルで戦えるという利点がある。その代わり、人に頼れないから、自分の不得意な分野も含め、オールラウンドに水準を満たす能力を持っていなければならない。つまり、ジェネラリストである。結局、どこまでいっても一長一短、どちらのほうが優れているかという話には絶対にならない。
 以上に述べたような理屈は確かに言われれば納得できるが、どうも感覚的に飲み込めないと思う人もいるかもしれない。それも無理のないことで、これは日本人にとって最も苦手とする考えだからである。「一人はみんなのために、みんなは一人のために」と言われても、前半だけしか頭に入らないのが日本人である。「滅私奉公」というと現在の日本では悪い言葉の代表選手のような扱いだが、しかしそれも、戦争に負けて、何の原理的考察もなくただ悪のレッテル貼りをした結果にすぎない。現在でも、たとえばスポーツの世界などでは、監督が選手に戦術の指示を与えること自体が即、選手の創造的で個性的なプレーを押さえつけるものだと非難するような風潮も存在するようだが、それこそ単に滅私奉公を裏返しにしたものであって、組織と個人の関係性について、何も考えていないことをかえって証明しているのである。
 ではそんな日本みたいな国で、なぜスーパー戦隊シリーズが生まれ、大勢の人々に愛されながら大きな発展をしてきたのだろうか。むしろそっちのほうを不思議に思うべきかもしれない。これについては、いずれ考察する機会もあろう。
 話を戻して、集中管理・自律分散の両システムとも得手不得手がある、ということを認めた上で、では戦争なんかは、集中管理システムが威力を発揮する例ではないかと考える向きもあろう。だがやはりそれもケースバイケースであって、刻一刻と情勢の変化する戦場で、いちいち上の指示を仰ぎながら戦っていたのでは、勝てる戦も勝てなくなる。マニュアル化された戦術には限度があり、こういう時に、やはり大きな意味を持ってくるのは、実際に戦場で危険を肌身に感じながら戦う戦士の臨機応変の判断力、要するに「勘」である。
 今「勘」と書いたが、この言葉には多少の問題がある。単なる当てずっぽうで行動して結果的にうまくいったのを、「勘が当たった」などと言うことがあるからだ。それが、科学的なのがマニュアルで、非科学的なのが勘であり、前者が当てにならない場合に限って後者の出番である、などというイメージを引き起こす。「勘」とは元来そういう意味ではない(だから曖昧さを避けるために、「勘」の代わりに「暗黙知」という言い方が使われることもある。対語は「形式知」とか「明示知」とか呼ばれている)。
 人間は、過去の経験から学び、それを未来への指針に役立てることができる生き物である。複数の人間が集まり、情報を交換すれば、それはさらに効率のよいものになる。誰か一人が失敗すれば、それを他の全員が教訓にすることが可能になるからである。ところが、世の中には言語化できない情報というものもある。個人が経験したことは、個人の中にしか蓄積されない。ある人が未来の予測をし、それが的中したとする。なぜそんなことが分かったのか、と人に聞かれても、理由を口で説明することができない。なんとなく直感がそう命じた、という答え方にどうしてもなる。他の人にとっては、単に当てずっぽうが的中しただけのようにも見える。これが「勘」の元来の意味である。「個人として蓄積された経験」に基づくものが勘、「組織として蓄積された経験」に基づくものがマニュアルである。
 「言語化できない情報」などというと、せっかちな現代人はそれを瑣末なものと決めつけるような傾向がある。あるいはその裏返しで、神秘的な超常現象みたいに持ち上げられることもある。いずれも正しい態度ではない。たとえば水泳の練習法。手足の動かし方だの息継ぎのタイミングだの、人から教えてもらって学べるものもあれば、実際に水の中で手足を動かし、何度も溺れそうになる経験を経た後でなければ掴めないコツというものもあるのである。どちらが大事というものではない。どちちも大事である。両者を分かつものは言語による伝達可能性の有無にしか過ぎず、信頼性に上下があるわけではない。
 さて、以上に述べたような観点から、戦隊シリーズの歴代の作品を見てみると、チーム全体で統一的に動く部分と、戦士の自主的な判断で動く部分、すべての作品に両方の要素が混じっていることが分かる。そして前者の比重が高ければ、チームワークの高い戦隊になり、後者の比重が高ければ、個人の力が重要な戦隊になる。大まかに言って、プロフェッショナル系の戦隊はチームワーク型が多く、一般人が突然未知の力を得たというようなアマチュア戦隊は個人の力型が多いという傾向がある。あくまでも傾向であって、すべてがそうというわけではない。
 どちらのタイプの戦隊のほうが面白いのだろうか。仲間との絆を信じて戦うヒーローと、自分の力を信じて戦うヒーロー。それはもう好みの問題だろう。常に的確な指示を戦士に与える、頼もしい司令官のもとでみんなが力を合わせて戦う戦隊が好きだという人もいるだろう。また「行ってはいかん。今のお前の実力では勝てん」などと言う司令官の制止を振り切り、独断で敵地に乗り込むヒーローの姿に格好よさを感じる人もいよう。どっちがヒーローとしてのあるべき姿かと言われたら、それはもう好みの問題としか言いようがない。
 そして、長いスーパー戦隊の歴史において、どちらが主流でどちらが傍流などと言われたことなど、なかったはずである。
 自由と規律。これは、複数の人間が集まって団体を作り、何か物事を成そうとするときの、永遠の課題である。個人の自由も組織の規律も、ともに大切なものであり、そしてこの二つは二律背反の関係にある。規律を高めるためには自由を抑制しなくてはならないし、自由を尊重するためには規律を緩める必要がある。両方が高い組織、それは人間にとって永遠の理想であり、決して実現することのない夢である(両方低い組織はありえる)。
 だから、小説だろうが映像作品だろうが、グループヒーロー物のドラマにおいては、この「自由と規律」の問題をどのように描くかが最も難しい。最適解が存在しないことが最初から決まっているからである。であるがゆえに、作り手にとっての腕の見せ所でもある。スーパー戦隊シリーズもまたその例に漏れない。自由と規律の関係をどのように描くのか、そこにこそ戦隊の性格が反映される。そしてそのことが、戦隊シリーズが三十余年にもわたる長い間、バラエティ豊かな作品を生み出し続けることを可能ならしめてきたのである。
 そのことがどうしても理解できない人たちというのもいるらしい。
 彼らにとっては、物事を判断する物差しというものは、常に一つでなければならない。だから組織を規律の高低でしか評価できない(あるいは自由の高低でしか)。そのほうが、確かに分かりやすくはある。だがその分かりやすさに与せず、自由と規律の二律背反という難問に真正面からぶつかり格闘してきた長年の歳月があってこそ、スーパー戦隊シリーズの今はある。その二次元的な広がりを持った豊かな耕地を、一次元的な広がりへと彼らは矮小化しようとしている。
 そう考えた場合、冒頭に引用した東映の「一人じゃかなわない」、こういう言い方をする本当の目的も明らかになろう。もし本当に、一人じゃかなわないからという理由でチームを組んでいるのであれば、選択の余地はなく規律が唯一の物差しになるからだ。
 実際はそんなことはない。戦隊シリーズにおいては、チームが結成された結果として、強くなるのであって、強くなることを目的にしてチームを結成するのではない。結果と目的を混同してはならない。
 実際の社会でも、一人でも十分強くてチームを組む必要性など全然ない人たちが集まってチームを組み、高い結束力を誇って一層強くなったりすることがある。一方で、一人一人は弱く、チームを組まないと勝てないような人たちが、チームを作らないこともある。そしてバラバラのまま戦って負ける。それで別に構わない。むろん中には、チームを組むだけの条件が整っていないにもかかわらず、チームを組まないと負けるというだけの理由でチームを組む人たちもいる。そういうのは普通「野合」と言うのである。そしてそんな野合は、たいていの場合悲惨な結末を迎えることになる。潔く負けておいたほうがマシと思えるくらいの。
 戦隊のメンバーは、個人行動と団体行動を使い分ける。自分の個人としての判断力を信頼して行動するべきときに個人行動をとり、仲間との絆を信じて行動するべきときに団体行動をとる。「一人じゃかなわない」という理由でチームを組んでいるわけではないから、そのような二刀流が可能なのである。
 「戦隊の本質はチームワークである」などという言い方は、どのように好意的に解釈しようとも、それは戦隊シリーズが今まで築き上げてきた豊かな内容を切り縮め、価値を落とそうとするものだと言わざるをえない。
 ただ、長年戦隊ファンをやっている人間からすれば、東映の行為は特に不可解というわけでもない。なぜなら東映は、戦隊シリーズのブランドバリューを高めることに、昔から一貫して何の熱意も持ってこなかったからである。そしてその態度が、今なお続いているのであろう。

2.故きを温ねて新しきを知らず

 とりあえず、戦隊シリーズにおける「自由と規律」の問題について、さらに話を進めたい。
 これまで述べたようなことを、戦隊の分類に利用できないであろうか?
 スーパー戦隊シリーズの歴史を一目で見渡せるような図を作りたい、というのはシリーズのファンであれば誰でも一度は通る道である。そのためには少なくとも評価の軸が二つは欲しい。その二つに、自由と規律を当てはめるわけである。
 前節で述べた「チームの意思」。司令官の決定か、メンバーが会議を開いて決めるか。会議で決める場合も、一人による独裁、多数決、全会一致など、決め方はいろいろある。とにかくそれを決定する機関が存在し、それに従って戦士各人が戦うのを「公」の要素、戦士の自主的な判断で戦うのを「私」の要素と呼ぶことにする。各作品において、戦士の戦いで公・私の要素がそれぞれどのくらいの大きさであるかを調べ、それで分布図を作ることができるのではないか。
 それが冒頭に掲げた戦隊マップである。
 戦士が、完全に司令官(あるいはそれに相当する機関)の指示に従って動く、完全にマニュアル化された「将棋の駒」であるのが、マップにおける三角形の右下端に相当する。ここでは戦士の自主性を発揮する余地は全くない。逆に、各自が己の自主的判断に絶対の信頼を置いて動くのが左上端である。ここではチームを組む意味がない。右下に行くほどチームワークが固い戦隊になり、左上に行くほど個人の自立性が高い戦隊となる。
 右下−左上の対立軸の他に、もう一つ右上−左下の対立軸についても考えておかなくてはならない。
 むしろこっちのほうが理解しやすいかもしれない。戦意の公私合計の大小である。地球の平和を守って戦うために、他のすべてを犠牲にして戦うヒーローと、自分の普段の生活では幸福を追い求め、同時に戦いもこなす、視聴者と等身大の人間としてのヒーロー。それぞれが右上と左下に相当する。それぞれヒーロー性重視と人間性重視としておく。念のために書いておくが、これまたどちらのほうが主流とかいう話ではない。両方のタイプともそれぞれの面白さがある。
 マップの詳しい作成手順については次章で述べるとして、こんな図でも作ってみれば、スーパー戦隊の歴史について、色々なことが分かってくる。
 よく、特撮やアニメにおけるヒーロー像の変遷について、昭和と平成で分けて対比的に論じようとする人がいる。厳密さを欠いた議論である。潮目の変化は改元より少し後、1990年代前半に起こっている。マップから読み取れるのは二点。一つは、それまで右上の斜辺近くに固まっていたのが、左下に向かって散らばっていったこと。もう一つは、それまでは右下側・左上側のどちらが多いということもなかったのが、この時期を境に右下側が多数派を形成するようになっていくこと。数だけの問題ではない。左上側を占めるのは、異色作と呼ばれることの多い作品である。
戦隊マップ・正義  戦後、日本社会が大きな激動に見舞われた時期は何度かあったが、1990年代前半もまたその一つである。この時期における政治・経済・文化の変化、そしてそれが戦隊シリーズにどのような影響を及ぼすに至ったかについては、稿を改めて論じるつもりではあるが、とりあえず一つだけ仮説を提示しておくと、この時期を境にして絶対的な正義という概念が急速に衰亡していったように思われる。
 いや、そんなものはとっくの昔になくなっていた、という指摘はあろう。しかしそれでも、そういうのは存在するはずだ、存在してほしいという幻想だけは残っていた。だから、せめて子供向けテレビ番組くらいは、絶対の正義のために戦うヒーローが活躍することを、人々は望んだ。それすら消滅したのが、1990年代前半という時代なのである。
 もともと組織が個人に対して与える指示には、服従の義務などなかった。個人も組織も、より上の概念(たとえば「天」とでも言うような)から「正義の為に戦う」という負託を受けており、そういう意味で、個人と組織とは対等であった。その天からの命令を、人々は以前ほどには感じられない時代が到来すると、ヒーロー物の世界もまた日本人的「滅私奉公」へと回帰させるような動きが生じた。ごく簡単な見取り図を示せばこういうことになる。
 そのように考えた場合、なぜ現在「チームワークで戦ってこそ戦隊」などという言い方が横行しているのかについて、やっと正解にたどり着くことができるであろう。要するに、今の感覚を昔の作品に当てはめているのである。
 スーパー戦隊シリーズの成功の秘訣として、毎年「一年たったら使い捨て」の精神をもって作品を作り続けてきたことが第一に挙げられる。戦隊シリーズは、シリーズ自体が持つブランドバリューが低い。ある作品がヒットしたからといって、そのファンが引き続き次の作品も見てくれる保証は全くない。だからスタッフは毎年まっさらな気持ちで作品作りに打ち込んできた。彼らの頭の中にあるのは「今年ヒットするにはどうすればいいのか」、ということだけ。これが仮面ライダーシリーズと大きく違う点である。過去の戦隊ヒーローを、現行作品の中に登場させるなどということに、東映が一貫して消極的であり続けてきたのは、ちゃんと理由があってのことなのである。
 それがなぜ、2011年をもって方針を変更するに至ったのか、詳しい事情については知らない。ただし、「今売れさえすればよい」という根本的な態度は従来のままにして、過去のヒーローが客演する作品を濫発したものだから、おかげで、スーパー戦隊に関して中途半端に興味を持つ人間が蔓延することになった。
 過去の作品のヒーローに興味を持つ人が増えること自体は、いいことだと思うかもしれない。しかしそういう人たちが、スーパー戦隊の歴史についてさらに詳しく勉強したいと思っても、そんな手段はどこにもない。そして1990年代前半に起こった歴史の断絶も知らぬまま、カタログ的な知識だけ詰めこみ戦隊史について詳しくなったような気になって、昔の作品を今の価値観に当てはめたり、今の作品を昔の価値観に当てはめたりする。そして一知半解な感想をネットの掲示板に無造作に書き散らす。そしてあちこちで生じる罵声の応酬。
 DVD、衛星放送、インターネット配信……。戦隊シリーズの視聴環境は昔に比べてはるかによくなった。あの作品の第何話を見たいと思えばいつでも見られるようになった。その結果が、これである。
 「一対五は卑怯」などという、くだらない茶化しが21世紀になった今ですらなお依然横行している一方で、戦隊シリーズに対するまともな研究や考察は極めて低い水準のままとどまっている。
 戦隊シリーズがその歴史において、時代の変化に応じてどのように作風を変えていったのか、本格的な議論を打ち立てようという動きが、そろそろ出てきてもいいのではないか。そしてその戦隊史学確立のために、この戦隊マップがその礎になることを願う。

 応用編では、その戦隊マップの具体的な作成手順について述べる。

追記
 東映特撮のスタッフのインタビュー記事を読むと、平山亨氏は「一人でも強く、力を合わせればもっと強い」、吉川進氏は「一人では弱く、力を合わせれば強い」という考えである。(*1) この二人はスーパー戦隊シリーズ第一作『秘密戦隊ゴレンジャー』にプロデューサーとして名を連ねている。ではこの両人にインタビューをし、それぞれの考えがどのように作中に反映されたかについて考察すれば、戦隊史学に大きな貢献ができるはずである。しかしそういうことは誰もやろうとしない。そして片方だけに話を聞きに行き、片方に寄った記事を書く。
 スーパー戦隊において、一人では弱いのか弱くないのか、そんなことについてさえ研究がまともに行なわれていないのは、なにか色々複雑な事情が影響しているように思われる。