戦隊史学基礎(実践編)

―― 戦隊マップ作成の実際

(最終更新 2014.8.29)

戦隊マップ3  誤読する人は絶対いるだろうし、そういう人にはどうせ何を言っても分からないだろうが、何度でも書く。これは作品の「タイプ分け」であって「ランク分け」ではない。「チームワーク」「自主性」「使命感」といった言葉は、通常の日本語では好ましいイメージを伴って使われるが、ここでは完全に価値中立的に用いる。数字の大小は各作品に対する評価の高低とは何の関係もない。
 公私の数字の後の括弧内は戦士全員の共通点であり、考察のとっかかりにしたものである。また〔設定〕〔実際〕はそれぞれ応用編の第1節と第2節に対応している。
 読者として想定しているのは、その当該作品を何度も繰り返し見、作品世界の雰囲気をつかんでいる人だけである。視聴したことのない人にとっては、まったくの説明不足の文章になっているであろうことを、あらかじめ断っておく。

1.秘密戦隊ゴレンジャー(1975)

 7公3私(黒十字軍の襲撃から生き残ったイーグル隊員)
〔設定〕
 戦士の適合性についての明瞭な説明は作中にない。ただ、第40話では、ゴレンジャースーツを着るためには並外れた精神集中力が必要であるということのみが明かされている。また第1話では、海城たち五人は全員とも、所属していた部隊が黒十字軍に急襲され全滅し、自分一人だけが重傷を負いながらも生き残るという地獄の経験をしている。この二つの事実が無関係とは考えられない。であれば、その精神集中力はマニュアル化して習得できるようなものではないのだろう。
 国際秘密防衛機構イーグルは、強大な科学力を擁する軍事組織である。だが、その組織の力だけでは黒十字軍に勝てない。現に第1話で大敗を喫している。その時に味わった地獄の経験を逆手にとり、自らの内に取り込むことのできた個人が戦士となることによって初めて、黒十字軍と五分に渡りあうことが可能となったと言える。
〔実際〕
 ゴレンジャー予備隊というものがある。成績優秀者はゴレンジャーに昇格する資格を得るのだが、どうもまともに機能しているとは言いがたい。第40話でペギーが催眠洗脳攻撃を受け、変身不能に陥った時には、予備隊に招集がかかることもなかった。そして第55話では逆に、大して切実な理由もなくキレンジャーが交代になり、予備隊員から新戦士が選ばれる。
 予備隊員から昇格したのは結局この一人だけであり、その熊野はゴレンジャー唯一の戦死者でもある。この事実は、しょせん訓練で得られたような力は本物の力にはなりえなかったということを、示しているようでもあった(第67話)。

2.ジャッカー電撃隊(1977)

 9公0私(国際科学特捜隊によってサイボーグとなった者)
〔設定〕
 第1話、国際科学特捜隊の鯨井長官が四人の戦士をスカウトするところから話は始まるが、なかなか思い通りに進まない。
 そもそもサイボーグになるということは、普通の人間としての人生を永久にあきらめるということを意味する。国際科特隊とは縁もゆかりもなかった人間に、ある日突然声をかけたところで、断られるのが当たり前である。それでも鯨井には方針を修正する気は全くない。結果的に鯨井の当初の構想ほぼそのまま、ジャッカー電撃隊は発足することになった。迫りくるクライムの危機に対抗するためには、個人の事情なんぞに配慮する余裕などないことは最初から明らかであり、拒否を続けていた桜井が考えを変えたのも、それに気づいたからである。
〔実際〕
 発足するまでは紆余曲折のあった本戦隊だが、一旦サイボーグになってしまった以上は行動の自由などない。四人とも、鯨井長官の指示に素直に従って戦い、自主的な行動をとる機会などほとんどなかった。カレンも第2話以降はまるで復讐のことなど忘れたかのようである。ただ、桜井にしても、単に鯨井から戦えと言われたから戦っているのではない、という思いはあった。悲壮な決意と覚悟を持ってサイボーグになる決断を下したのも、悪を憎み正義のために戦う気持ちが元々自分の心の中にあったからこそだ、という。
 だから第23話で、番場壮吉という、悲壮さなど微塵もなさそうな男が新たにメンバーに加わり、新行動隊長に就任するや、四人が完全に将棋の駒と化したのは、当然のことであったと言える。

3.バトルフィーバーJ(1979)

 7公2私(国防省所属、ダンスの名人)
〔設定〕
 ダンスのテクニックを戦闘に応用するという設定は、あまり有効に生かされぬまま途中で雲散霧消したかに見える。だが、組織としてではなく個人として身につけた特技を使って戦うという設定は、本戦隊の気風を大きく規定していた。ではそれは何か。
 「やる気」という問題である。
 日本国防省という強大な軍組織に身を置く以上、倉間鉄山将軍の指導力に対しては伝たち五人に何の疑問もない。ただし、戦いはあくまでも個人の内発的な闘志に従うべきものである。やる気が起きなければ、パチンコやインベーダーゲームに遊び呆け、倉間が雷を落としたところで、態度が改まることもない。
〔実際〕
 本作では戦士の交代劇が二度あったが、二度とも誰も倉間の指示を仰ごうとしなかった。第24話では任務失敗の責任を感じていたマリアが、第33話では白石の復讐を誓う神が、それぞれ勝手にバトルスーツを着用し、エゴスと戦い、そして勝った。多分二人とも、その戦いぶりが評価され、正式に加入という運びになったのであろう。
 倉間将軍に対する隊員たちの忠誠心は確かに固い。だが、場合によっては将軍の意向さえ確かめずに行動してしまうほど、エゴスへの闘志で血が熱くたぎっているような人間こそ隊員にふさわしいのだという考えが、この隊にはあらかじめ繰り込まれている。
 第24話では、自己都合による辞職を申し出た隊員に対して慰留もせず。第33話では、個人的なこだわりのために、白石はバトルスーツを携帯せぬまま単独で行動。その結果は本戦隊の気風を象徴するものとなった。

4.電子戦隊デンジマン(1980)

 7公2私(デンジ星人の血を引く地球人)
〔設定〕
 赤城たち五人とアイシーの間には、立場の違いというものが最初から存在していた。
 アイシーにとっては、この戦いは三千年前のベーダーとデンジ星の戦いの続きであり、そのためにデンジ星人の末裔を戦士に選んだ。一方赤城たちには、自分たちは地球人であるという意識しかない。自分たちが選ばれた理由を五人が知ったのは劇場版(7月)であるが、別にそれで戦意が一層高まるなどということもなかった。彼らはあくまでも自星の防衛という意識で戦士として立ち上がったのである。だがアイシーは、そんな彼らの気持ちをすくい上げ、束ねる気などなかった。
 とにかくも両星の共闘が実現し本戦隊が無事発足をみたのは、デンジランドが地球よりはるかに進んだ科学力を持ち、五人がそれを頼りにしたからである。彼らはその「立場の違い」に気づくことさえなかった。最終回直前までは。
〔実際〕
 強固な使命感を持った戦士たちの中で、一人異色なのがあきらであった。彼女だけが最初は戦士になるのを渋っていたのは、戦士として意識が低いということもあろうが、アイシーと五人との間の立場の違いがいずれ浮かび上がることの、伏線だったのかもしれない。
 この「立場の違い」が決定的なものになるのは第51話(最終話)、ベーダーとの最終決戦を前にしてである。アイシーにとっての最優先事項は勝つことであって、犠牲や被害をできるだけ少なくすることに、それほど関心はない。アイシーにとってはしょせん地球はよその星。そのことに、五人はここにおいて初めて気がついたのだろうか。

5.太陽戦隊サンバルカン(1981)

 10公0私(地球平和守備隊所属)
〔設定〕
 ブラックマグマからの宣戦布告を受け、即座に国連サミット開催、そして太陽戦隊の設立決定。この手際のよさ。これは完全に未知の敵との戦いではないように思える。ブラックマグマに類する敵はこれまでにも何度も現れたことがあり、対処法が既にマニュアル化され、国連に蓄えられている世界ではないか。
 戦士の選考もまた極めてスムーズである。地球平和守備隊の優秀な隊員にして、空海陸のスペシャリスト。訓練によっては得られない何か特殊な力の持ち主などという雰囲気は、そこには微塵もなかった。
〔実際〕
 戦隊シリーズ史上、頼りがいのある司令官として、第一に指を屈するのが本作の嵐山であることに、異存のある人はおるまい。嵐山の指示は常に的確であり、大鷲たち三人の戦士の任務は長官の手足となってそれを忠実に実行することである。臨機応変の判断力などに出番はない。
 第23話では大鷲が突然NASAへの転勤を命じられ、即座に替りのバルイーグルがやってくる。それが単なる人事異動として淡々と処理されていたことに対して、面食らった視聴者も多かったであろうが、むしろこういう交代劇こそ本作らしいのである。言わば機械の部品を取り替えるだけの作業なのだから。
 手取り足取り指示されなければ何もできない、というわけではない。できないのではなく、必要がないからしないのである。現に第29話では飛羽が長官の指示を仰ぐことなく、自力で新必殺技を編み出している。しかしそれすら唐突な印象はある。

6.大戦隊ゴーグルファイブ(1982)

 1公9私(未来科学という理念)
〔設定〕
 第4話では赤間たち五人が戦士が選ばれた理由について説明があるのだが、実はこれが何の説明にもなっていないのである(にもかかわらず全員その説明に深く納得する)。そもそもが第1話で基地に初めて呼ばれた時、何の説明も受けぬまま戦士として立つ決意をした五人である。あたかも自分たちが正義の戦士としてふさわしいことを、ずっと以前から知っていたかのように。
 暗黒科学と戦い。そこにおいては既成の軍事学や組織力など何一つ頼りにならない。頼りにできるものは一つだけ、それは「未来科学」という理念である。それを胸に抱いた者のみが、戦士となりうる。そして、それを持ってさえすれば、誰でもよい。知力も体力も技術も一切関係ない。そのような適格者を探し、集めるという作業を未科研は請け負ったに過ぎず、従ってその人選に何の責任も負わないし、作戦の指揮についても同様なのである。
〔実際〕
 司令官不在とはいっても、作戦会議を開くことはある。現実にチームを組んでいる以上、お互いのやっていることに全く不干渉ということはない。とはいうものの、お互い弱い部分を補い合い、力を合わせて戦おうという雰囲気が、これほど薄い戦隊というのも他にないのだが。
 もちろん、仲間のピンチに駆けつけるということはある。しかしそれも各自が自主的に行動した結果としてそうなるのであって、義務と考えているわけではない。第39話において、ミキが絶体絶命の大ピンチに陥りながら、仲間が助けに来てくれることを全く当てにすることがなかったのは、その現れである。

7.科学戦隊ダイナマン(1983)

 5公3私(大きな夢を持った若者)
〔設定〕
 突拍子もない発明を思いついては失敗ばかりしている、何の実績もない五人のアマチュア発明家。戦士の人選としては、かなり奇妙なように見える。だが、地底人などという、未知の存在と戦うにあたって、体力や技術よりも人柄優先という方針は、さほど不自然なものではない。
 大きな夢を持っていることを見込んで、夢野博士は弾たち五人を戦士に選んだ。しかし夢を持つことと、それをかなえることはまた別である。未熟な彼らには指導者が必要であるし、それは彼らよりさらに大きな夢を持った者でなければならない。つまり夢野である。偉大な発明家だったとはいえ、今は何の公的な肩書きをも持っていない一民間人。もちろん軍事のことなど何も知らない。が、そんなことは問題ではない。
〔実際〕
 第1話で、弾たちは夢野に会う前にすでにジャシンカと遭遇し戦っている。五人が戦士になったのは、夢野から戦えと言われたからであるが、しかしそれだけではない、言われる前から戦う気だけは大いにあった、ということをこの事実は示している。そして、それだけでは勝てないということも。
 六人を結びつけていたのは、利害でも理念でもない、夢を持った者どうしの純粋な信頼関係である。仮にダイナマンに最大のピンチが訪れることがあったとすれば、それは、その信頼に亀裂が入った時にほかならない。そういう意味で、最終決戦目前の第48話で、夢野の隠していた過去が暴かれる話を持ってきたのは、本作のクライマックスを盛り上げるのに最もふさわしいやり方であったと言うことができる。

8.超電子バイオマン(1984)

 7公2私(バイオの血を引く地球人)
〔設定〕
 バイオ星と地球という、二つの星が力を合わせて戦うという話の枠組みは『デンジマン』と似ている。だがピーボがアイシーと決定的に異なるのは、自分がよそ者であるということに最初から自覚的であるという点である。地球はあくまでも、平和を愛する地球人自身の手によって守られなければならない。
 とはいっても郷たち五人は、自分たちが特殊な血筋を引く者であるという事実すら、教えられなければ気づくことのなかった者たちである。そもそもバイオ星がどんな星かも知らないし、ピーボの指示に大きく頼った戦い方をするという点においては、デンジマンと大して違わない。
〔実際〕
 第33話では戦力強化のために、ピーボがバイオスーツ改良の研究に取り組むのと並行して、高杉が千本ノックに挑む。唐突な話ではある。しかし、新しいスーツを着るためには、自分の弱さに打ち勝たねばならない。どうすればいいのか、手取り足取り教えてくれる人はいない。である以上、手さぐりでやるしかないのである。バイオ星の優れた科学力と、地球人の心身の強さが結合してこそバイオマンの力となるのであって、どちらか片方だけではダメだ、ということを端的に示す話であった。
 自主性尊重の方針があるとはいえ、やはり全体的に見ればチームワーク重視型である。第6話では個人プレーに走ったミカが批判されるといったように。司令官不在、しかも素人の寄せ集め。そんな戦隊にしてはなかなか高いチームワークが保たれていたのは、郷の圧倒的なリーダーシップにチーム全員が依存していたことによる。

9.電撃戦隊チェンジマン(1985)

 5公5私(地球守備隊所属、アースフォース)
〔設定〕
 アースフォースは劇中では何度も「未知なる神秘の力」と呼ばれているが、それは正確な言い方ではない。
 その威力が最大限に発揮された時、地球を守って戦うのに十分な力であるというのは既に解明済みの事実であり、過去の記録からも確実なことである。実際、伊吹長官の目論見通り正確にそれは出現し、剣たち五人がそれを浴びた。では具体的にどういう戦い方をすれば、最大限に発揮できるのか。ここから先が全く未解明なのである。地球自身から与えられた力というが、地球は口をきかない。浴びた人間任せなのである。
 既知の力と未知の力、その二面性を持つのがアースフォースと言える。そしてそこから生じるジレンマが、本作のドラマの礎をなす。
〔実際〕
 第36話。司令官が戦士に鉄拳をふるうというのも珍しいが、その際伊吹は、自分自身の力を信じろなどと言いながら五人に殴りかかるのである。しかし「自分の力を信じろと人から言われた」というのもパラドックスではなかろうか(本作における「ジレンマ」の端的な一例)。
 個人としての戦いなのか、組織の一員としての戦いなのか。その二重性の中にいるチェンジマンは、常にどちらを犠牲にするのかの選択を迫られる。しかも正解はない。それが本作の隅々に、何となく重い雰囲気を漂わせる。私より公優先の、第41話のような話が悲しいのは言うまでもないが、逆に公より私優先の第31話のような話もまた、スッキリしないものを感じないわけにはいかない。バズーの正体をあばきそこねた結末を、素直に喜んでいいものかどうか?

10.超新星フラッシュマン(1986)

 1公8私(フラッシュ星系で育った者)
〔設定〕
 任命者というものが存在しない、自発的に結成された初の戦隊である。
 五人が仲間であるということは疑うべくもないが、実はジンたちがお互いのことをそれほど知らないということは、見過ごされやすが重要な事実である。五人が育ち、訓練を受けたのも、同じフラッシュ星系でも別々の星であって、当然集団戦のノウハウなど持っているわけがない。
 そもそも彼らが地球に来ようと思ったのは何故か。フラッシュ星系で育ち、訓練を受けて特殊能力を身につけ、そして故郷の地球に対する熱い思いを抱いている、そんな自分のような人間こそが、地球を守ってメスと戦うにふさわしい戦士であると各自が思ったからである。もちろん全員が力を合わせれば、バラバラに戦うよりも良いだろうという考えはあり、だからこそ一緒に地球に来たわけだが、それはあくまでも副次的な要素である。
〔実際〕
 第5話が典型なのだが、五人全員がそろわないというピンチにも、大して動揺するわけでもなく、やっと五人そろった時も、大して有り難そうにするわけでもない。ずっとこんな調子である。決してチームワークそのものを軽視しているわけではない。ただ、コンビネーション技一つ決めるのも一苦労なのである(第35話など)。別々の星で育ったという事実の持つ意味は大きい。
 勘違いしている人も多いようだが、彼らが地球にやって来たのはメスと戦うためであって、戦い以外のことはすべて瑣末なことである。家族探しはあくまでも「ついで」に過ぎないことは、第2話ではっきりと明言されている。

11.光戦隊マスクマン(1987)

 2公5私(オーラパワー)
〔設定〕
 東洋の武術と西洋の科学を融合させた、最新式のトレーニングとか言いながら、第8話では「根性が足りないっ!」とか言いつつ、うさぎ跳びなんかしているのである。これぞ本作らしさが最も凝集されたエピソードと言える。
 タケルたち五人を戦士を選んだのは姿長官である。しかし彼もまたオーラパワーの素質の有無を見定め、基礎的な訓練を施す以上のことはできない。どのような方向に、どこまで力を伸ばせるかは、ほとんど当人任せである。その当人にしても、こういうやり方で必ず伸びる、という確信があって訓練に励んでいるわけではない。常に手探りである。だから時々突拍子もないトレーニング法を試し、姿長官の役目はそれを援助することだけである。
〔実際〕
 第46話は本作最大の問題回である。タケルがイガムに対して「女とは戦えない」などと発言したことは、とんでもない公私混同のように見える。平和を願う地上と地底の多くの人々の願いを背に戦っている戦士の発言とはとても思えない。しかし、できないものはできないのである。
 心に迷いなく戦えば、それは無限の威力を発揮する。その一方、ほんの少しの心身の乱れがパワーダウンに直結する。つくづく扱いにくい力、それがオーラパワーである。タケルにしても、決して使命をおろそかに考えているのではない。ただ、彼にとっては恋人の美緒を救い、彼女との平和な日常を取り戻したいという思いがあり、それがイガムと戦うことをためらわせる。そうなっては仕方がない。義務感で戦って発動する力ではないのだから。

12.超獣戦隊ライブマン(1988)

 4公5私(科学アカデミアの技術の継承者)
〔設定〕
 「友」というほど仲が良かったわけではない。また彼らの大量虐殺に関しては、何の正当化の余地もない。何が問題だったのだろうか?
 勇介たち三人がボルトと戦っているのは、死んだ科学アカデミアの仲間たちの遺志を、生き残りである自分たちが受け継ぐ決意をしたからである。それが彼らの団結の拠り所であった。ところが、科アカで学んだという点では、ケンプたち三人もまた同じなのである。彼らは科アカの理念を間違って受け継いだ者たちなのであろうか。それとも、科アカで学んだことを、命を守るために使うのも命を滅ぼすために使うのも、結局は個人の決断の問題でしかないのだろうか?
 シリーズ史上二番目の、自発的に結成された戦隊である。指導者もいない。ケンプたち三人が、「本来ならば味方のはずの者」なのか「単なる敵」なのか、一概に決められないのは、それが原因でもある。
〔実際〕
 もともと気の合う仲間の集まりだった三人戦隊時代よりも、五人になってからのほうが、公度私度は大きな問題になってくる。追加の二人にとっては、肉親を殺されているという事実の持つ意味は大きい(第35話など)。復讐心などという、私的感情のために戦うことの放棄を誓うことによって、彼らはライブマンの正式メンバーとして迎えられた。だが、それほど簡単に気持ちを切り替えられるわけでもない。
 そもそも、先輩として彼らを指導すべき立場の三人にしてからが、ケンプたちをやっつけたいのか、改心させたいのか、軸足が一向に定まることはなかったのだから、無理もない話である。

13.高速戦隊ターボレンジャー(1989)

 3公5私(妖精を見ることができる若者)
〔設定〕
 妖精は太宰博士には見えない。力たち五人には見える。これが本作の設定の最重要ポイントである。要するに、五人のほうが立場が上なのである。
 シリーズ初の、全員未成年という設定を持った作品にふさわしく、本作のテーマは「若さ」である。五人が妖精を見ることができるのも、元はといえば単なる偶然と言えなくもない。また五人とも、妖精や暴魔と人類の歴史について、十分な知識と判断力を持っているわけではない。無謀は承知の上である。若さを武器にがむしゃらに突き進む、そのことによって彼らは戦士としての有資格者となった(その意味で第43話は重要である)。
 メカやマシンを開発し五人に与えたり、シーロンと五人を会わせたり、太宰の果たす役割は決して小さくはない。だが、戦いの主体はあくまでも五人にある。
〔実際〕
 使命感や義務感での戦いではない。だから、序盤においては重要なテーマかと思えた地球環境問題が、次第に遠景に退いていったのは、自然な流れであったといえる。普通の高校生としては、あまり興味のある問題ではないからだ。関心が大きく向くのは、学園生活のほうであって、流れ暴魔編以降それは決定的なものになる。
 第30・31話、クラスメイトの女の子が、敵として現れるなどという衝撃の展開に、五人は大して板挟みを感じるわけでもなかった。彼女が倒す対象ではなく、改心させ、救う対象であるというのは最初から疑う余地もなかったし、そしてそのように考える五人に対して、太宰が何か指示を与えることも、当然ありえなかったのである。

14.地球戦隊ファイブマン(1990)

 7公1私(星川家のきょうだい)
〔設定〕
 別に星川家は特殊な遺伝子を伝える家系でもないし、五人とも希少な能力の持ち主というわけでもない。なぜ、きょうだいだけで戦うことになったのか。
 いわば、これは私戦なのである。シドン星の緑化事業に人生を捧げ、ゾーンの侵略の前に倒れた父母。学たち五人が戦士となったのは、その平和を愛した両親の思いを受け継ぐ誓いを立てたからである。その誓いを守っている限りにおいて、彼らは戦士としての有資格者なのであり、そしてその父さんや母さんの遺志について、正しく判断を下す役目は、ほぼ学ひとりに担わされている。
〔実際〕
 自発的に結成された戦隊第三弾である。にもかかわらずこの公度の高さには目をみはる。これはもちろん学の長兄としての圧倒的なリーダーシップがあればこそ。実質的な司令官兼任戦士と言っていい。第2話で、四人の弟妹が学とアーサーの指示を無視して勝手な行動をとった挙句に敵に捕まり、学一人に助けられた時、その流れは決定的なものになる。もっともこれは、父母の仇との二十年ぶりの対面に、頭が熱くなって感情的になったほうがむしろ普通であり、こんな時ですら一人冷静さを失わなかった学のほうが異常と言うべきかもしれない。
 しかしそれだけではない。これほどメンバー同士が親密で、お互いのことを熟知している戦隊というのも稀である。二十年もの間、他に頼る人もなく、身を寄せるようにして生きてきた五人きょうだい。その絆の固さは、彼ら全員に同じ職業を選ばしさえした。単に血がつながっているだけの仲とは違うのである。

15.鳥人戦隊ジェットマン(1991)

 1公3私(バードニックウェーブ)
〔設定〕
 望んでなったわけでもなく、望まれてなったわけでもない。戦士になった理由がまったくの偶然というのはヒーロー物として極めて珍しい。
 本来ならば、バードニックウェーブはスカイフォースの選りすぐりの精鋭隊員が浴びるはずのものであった。それがアクシデントのため、竜以外は素人の民間人が浴びることに。小田切長官としては責任をもって、彼らを一人前の戦士に鍛え直したかったのだが、だいたい彼女自身が素人を指導した経験なんてないのである。
 それは、地球を守るのに必要な力ではあっても、十分な力ではない。そのことを知らされた上でなお、凱たち四人は戦士としての使命を背負う決断をした。その事実が、本作の独特の作風を形作る。
〔実際〕
 「人間なんて滅んだ方がいいんじゃねぇか?」(第2話での凱のセリフ)
 本気でこんなことを考えていたわけではない。凱だって死にたくないと思っていたし、であれば戦わないという選択肢はなかった。この発言の何が衝撃的であったかというと、もはや「人の命を守る」ということが、絶対的な価値を持たない時代が到来したことを宣告したものだったからである。以前であれば、単なる偶然であってもそれを「天の配剤」などと言い換え、自分たちは天意によって選ばれた戦士だと思い込むこともありえた。
 確かにバイラムに勝つことは勝った。だがそれで平和になったわけでは決してない。刃物を持った犯罪者は、相も変わらず地上をうろつき、それを取り押さえようとした正義の戦士は死ぬ。第51話(最終話)、凱は戦死したのである。

16.恐竜戦隊ジュウレンジャー(1992)

 7公1私(古代人類の伝説の戦士)
〔設定〕
 ゲキたち五人が戦士に選ばれた選考過程については、作中には何の説明もない。そんなことより重大なのは、本作が「神」が作中に登場する、初の作品だということである。
 といっても本当に神なわけではない。この世界の創造主でもないし、その意に反する行動を人間がとれば、たちどころに天罰を下すというわけでもない(そんな能力はない)。ただ、一億数千万年前もの昔から、古代人類が「神」として崇め奉ってきた存在だ、というだけのことである。それが人間の味方であり、常に正しい判断を下し、人間に対して適切な指示を与えるなどという保証はどこにもない。だがそんな疑いを口に出す者はいない。
〔実際〕
 何か苦境に立つたびに、守護獣やバーザから課題が与えられ、それを解くことによって、力を手に入れていく。その課題というのも、あらかじめ正解が一つだけ用意されている種類のものであり、回答者の創意などが入る余地はない。本作がRPG的と呼ばれるゆえんである。
 身の丈四十メートルもある巨大生命体。しかも「神」を自称し、口ずから人間に命令をする。このような奇妙な状況であっては、戦士の自主性を論じること自体が無意味といえる。だからといって五人とも、神に対して絶対的な服従心を持っているようにも見えない。たとえば第22話、ゲキとしては命令に従うことはできず、かといって神に逆らってでも兄の命を救おうと腹をくくったようにも見えず。都合よくブライが改心しなければ、あの後一体どうするつもりだったのだろうか?

17.五星戦隊ダイレンジャー(1993)

 6公1私(気力)
〔設定〕
 気力とは一体どのような力なのか。亮たち五人がそれを己の肉体を通して実感することは、結局最後までなかった。彼らが戦士になったのは、嘉挧にそうするよう言われたからである。その、出会って日もない、素性一切不明の男を信ずる根拠などどこにもなかった。ただ、ゴーマが世界を支配したら、こんな恐ろしいことになるぞという、恐怖のビジョンを見せられて震え上がり、黙って従う気になっただけである(第4話)。そのビジョンが本当かどうか、確かめるすべなど何一つなく。
 嘉挧の説明で戦士になった五人は、説明をされなければ何もできない戦士であることを、最初から宿命付けられていたと言っていい。そしてそれに立ちふさがる者がいれば、誰であろうと敵である。たとえそれが嘉挧その人であろうとも(第46話)。
〔実際〕
 第3話では、嘉挧は五人にあえて指示を出さなかった。自主性に任せたのである。結果は大失態、以後は手取り足取りである。何か困難が生じるたびに、五人は嘉挧に頼って指示を仰ぎ、そして嘉挧は常に適切な説明と指示を与える。五人はそれに従い、勝利し続けた。
 だから第45話で、説明もせずに問答無用で自分の言うことに従えと嘉挧が言った時点で、五人との関係性が崩壊したのは、当然の帰結であった。もともと嘉挧にとっては、ダイレンジャー結成は彼の立てた複数のプランの一つに過ぎず、他の計画の目処が立てば、使い捨てにする予定のものでしかなかったのだが。
 そして五人は「最初に嘉挧が説明したこと」に従って戦い続けるだけであった。

18.忍者戦隊カクレンジャー(1994)

 6公2私(忍者の子孫)
〔設定〕
 コミカルからシリアスへと作風が変化するというのは珍しい(逆はよくある)。
 特に目標もなく人生を送っていた若者たちが、ある日突然戦士としての使命を授かったのである。序盤だけ見れば2公4私か。ただしその独特の、のんきな雰囲気が漂う戦隊であることが可能だったのも、しょせん敵が弱かったからにすぎない。組織を持っていない敵は、シリーズ史上初である。
 だから、第14話以降、敵組織がその強大な姿を徐々に現し、命がけで戦わなければ生き残れないという現実が突きつけられるや、強力な使命感と結束力を持ったチームへと移行したのも当然の流れであった。そして、口ずから命令してくる巨大生命体。それが本当に人類の味方なのかを判断する材料を、サスケたち五人が持っているはずもない。なにしろそれまで特に目標もなく人生を送っていた若者たちなのだから。
〔実際〕
 もともと真面目で正義感の強い連中ではあったから、自己犠牲をいとわぬ強い使命感を持った戦士へと移行することに何の支障もなかった。序盤の彼らに欠けていたのは、指導者のみ。とすると、シリーズ史上初めて女性をリーダーにした、その制作者側の意図はあまりにも明白であろう。
 サスケは実質的リーダーの風格を最初から漂わせていたし、だから路線変更後の鶴姫は、けなげで、心やさしく、足手まといのヒロインという立場にすんなりと収まることができた。第43話のような、リーダーとしての自覚を欠いた行動も、そのためにかえって男どもに奮起を促し、結束を固めるのに貢献していたといえる。

19.超力戦隊オーレンジャー(1995)

 8公0私(国際空軍所属、超力)
〔設定〕
 超力が大自然のエネルギーだという設定は、ほとんど意味がなかったと言っていい。
 それは、三浦参謀長が超古代文明から発掘して得られた力ではあるが、第7話のラストでは、その三浦にも百パーセント解明済みの力ではないことが示唆されている。その不足を補うべく、戦士各人の自主性に従った戦い方を求められているかというと、そういうわけでもない。吾郎たち五人はただ三浦の命令に従って超力を身につけ、三浦の命令に従って戦っただけである。
 そのような不確かな力に地球の運命を委ねて戦うことに、疑問を持たないのかと思う人もいるかもしれない。しかし軍とは普通そういうものである。
〔実際〕
 たとえば第32話の冒頭。大自然のパワーを身に受けた戦士が見た夢なのであるから、普通の夢であるはずがない。煩わしい手続きなど省略して、さっさと現場に調査に行けばいいのにと思うが、軍隊の規律としてはそういうわけにもいかないらしい。いちいち参謀長の許可を得なければならず、しかし根拠が夢だから、説明するのももどかしい。もっともそのような規律の高さは、誰か一人がピンチになればすぐさま他の四人が駆けつけてくれることを保証するわけであるが。結局のところ、普通の軍人戦隊とやってることはほとんど同じである。
 では第47話はどうなのか、と思う人がいるかもしれない。超力をよみがえらせたのは、戦士一人一人の諦めない心であった。ではなぜ諦めなかったのか。ドリンに諦めるなと言われたからである。

20.激走戦隊カーレンジャー(1996)

 3公3私(クルマジックパワー)
〔設定〕
 伝説に選ばれた戦士である。とはいうものの、ではその伝説が、いつ頃から、どこで、どのような願いを託されながら今まで伝えられてきたのか、作中では全く明らかでない。また恭介たち五人とも、特に明確な決意表明があって戦士になったわけでもない。ダップに無理矢理ひきこまれ、なりゆきでなったのである。
 それが本作の特徴なのであるが、しかしこれでは公私比率は出せない。
 そもそも、宇宙の伝説の選んだ戦士が、なぜ全員小さな自動車修理会社の同僚なのだろうか。単なる偶然か、それとも何か意味があるのだろうか?
〔実際〕
 正義感も人並みに持っているし、現在の地球の危機を救うことができるのは、特殊な力を持った自分たちだけだ、ということも理解している。その割に、あまり真面目に戦っていないという印象を持つ人もいるようだ。それは、彼ら五人がクルマジックパワーを、自分たちに絶対確実な勝利を約束してくれる力だと思っていないからである。そもそもそういう戦いなのである。
 ただ、さすがに命がけの戦いも一年近く続くと、そのユニークな気風も変質を受けそうになる。第46話では、最終決戦が間近に迫っていることを肌に感じ、柄にもなく自主トレーニングなんかに励む。そんなことをするから、罰が当たったのであろう、今度はクルマジックパワーのほうが消えてしまう。だが、もともと絶対的な信頼を置けるような力ではなかったし、であれば、それが消えたからといって、くじけていいということにもならない。
 「心はカーレンジャー」とは、そういう意味である。

21.電磁戦隊メガレンジャー(1997)

 4公2私(久保田博士の直感が選んだ若者)
〔設定〕
 若さの可能性。それが、五人の高校生が戦士に指名された理由である。敵の攻撃が予想以上に早かったために、仕方なく緊急に決断を下さねばならなかった結果ではあるが、その「若さ」には二つの意味がある。
 一つはがむしゃらさ、ひたむきさ、柔軟さといった若さゆえの長所。もう一つは、こちらの方がより重要なのであるが、未熟さである。今はまだ頼りないが、やがて使命感と責任感をそなえた戦士として彼らが成長していくであろうことを信じ、そして自分たち大人が責任をもって彼らを導いていこうという思いのもとに、久保田博士は健太たち五人を戦士に指名した。もちろん、逆に五人が久保田を導くという予感も、なかったわけではない。
〔実際〕
 明るく能天気な作風に見えて、意外にも序盤から結構重い話がある(18話や第23話など)。それは五人が子供と大人の中間的存在としての「若者」であることに由来するものである。子供が私、大人が公である。
 そのような設定にした以上、必然的に私から公へと移行する物語にならざるをえない。もともと五人が戦いを決意した理由は、好奇心である。それも相当変わっているが、だから最終決戦を前に、彼らは自分たちが成長したという証を立てる必要があった。面白そうだから戦うのではない、面白い面白くないに関わらず、戦士の義務として戦うのである、という。つまり、それが第49話以降の展開である。
 ただしそれは、果たして本当に人類が守るに値する存在なのか、という疑問については、棚上げにするということでもあった。

22.星獣戦隊ギンガマン(1998)

 2公3私(アース)
〔設定〕
 第1話、自分には才能なしと諦めていたはずのリョウマが、バルバンの襲撃を前にして、突然アースの力を開花させたところから話は始まる。
 アースの習得法も戦法も、ギンガの森の住民によって代々伝えられてきた、ということは、それは完全にマニュアル化されたもののはずであった。ただ三千年という時間は長かった。実戦の厳しさみたいなものが抜け落ち、道場剣法化していたとしても無理もない話である。
 アースの真の力は、心の底から星を守りたいと思った時に発動した。かといって、無限大の威力が発揮されるわけでは決してない。規格に収まる力ではないからといって、別に神秘的な要素もないのである。五人中、最も態度露骨なのがヒカルではあったが。
〔実際〕
 スーパー戦隊にとって、かつては必須ですらあった「自己犠牲」の精神。それをはっきりと否定したのが本作の最大の特徴であろう。
 第26話で「戦いたい」と言ったリョウマはあまり自信なさげに見える。実際ヒュウガの方が実力が上なのは明らかであった。兄を超えたいというのはリョウマの単なる個人的な事情に過ぎない。そんなものを優先させようと思ったリョウマは、多分、バルバンはそれほど大した敵ではないことに、薄々気がついていたのであろう。一方ヒュウガがアースを捨てたのは、自分を犠牲にする悲壮な覚悟をもってせねば、戦いに勝てないと思い込んだからである。
 どちらが正しかったのかは、第50話(最終話)で明らかになる。そしてそれはリョウマの兄超えの物語の完結をも意味したのであった。

23.救急戦隊ゴーゴーファイブ(1999)

 6公1私(巽家のきょうだい)
〔設定〕
 別に特殊な能力の遺伝子を伝える家系ではないし、またマトイたち五人が、前の職場においてそれぞれ抜群に優秀な職員だった、という話もない。戦士は巽家の者でなければならないという、特に積極的な理由はないようだ(第6話など)。
 なぜ一家だけで戦っているかというと、人命に関わる仕事につけというのが、江戸時代から続く巽家の家訓だからである(第8話)。五人が消防士や救命士といった職業についていたのもそうだし、災魔一族との戦いへの参戦もまたその延長線上にある。そこに個人の意志が入る余地はない。
 八年間姿をくらましていた上に、子供たちの職場に勝手に辞表を出すような父親に対して、わだかまりが完全に払拭されているわけではない。それでも、父親は父親である。
〔実際〕
 「人の命は地球の未来」などと毎週ヒーローが声をそろえて叫ぶなど、かつては考えられないことであった。そんなことはわざわざ口にする必要のない、自明のことだったからである。シリーズの、命の尊さはもはや絶対の価値を持つものではないという流れは、この作品の登場をもって決定的なものになる。逆説的な話ではあるが。
 普通の家族以上の、特別に深い絆で結ばれているわけではない。ただ、時代の変化に伴いヒーロー像が変わっても、家族の絆というものはさほど変わるものではないらしい。きょうだい喧嘩や意見の衝突がないわけではないが、さほど深刻に発展することもない。元消防士と元警察官との間の人命に対する考え方の違い、などというものが問題になることもついぞなかった。

24.未来戦隊タイムレンジャー(2000)

 1公6私(二十世紀で時間保護局の局員としての仕事を始めた者)
〔設定〕
 最初は職務であった。竜也たち五人は、正しい歴史を守るという時間保護局局員としての任務を遂行しつつ、その枠内で自分たちの意志を貫くつもりだった。ところが戦いが進むにつれて、時保局は本当に正しい歴史を司っているのか、いやそもそも正しい歴史などというものは存在するのか、それ自体疑わしいものとして立ち上がってくる。たどり着いたのは、個人の決断が歴史を決めるのであって、歴史が個人の決断を決めるのではないという、それ自体ごく当たり前の事実であった。その決断の正しさの根拠となってくれるものは、もはやどこにも存在しない。
 二十世紀の人々を放ってはおけないとは思った。ただその行為の結果として、その皺寄せが他の時代に行き、より悲惨な事態が出現した可能性も否定されてはいない。実際どうなったかは不明である。それは考えても仕方のないことである。
〔実際〕
 家庭の幸福に対する五人の関心の薄さというのも、この時期の作品としては非常に珍しい。
 序盤のギスギスした雰囲気も、他の作品に例を見ないものであるが、面白いのは、生死を共にした戦いを続けていくうちに、自分たちは仲間であるという意識が彼らの中からかえって失われていくことである。序盤は少なくとも「同僚」ではあった。しかし、自らの運命を決定するのは自らの意志だけであるとするならば、彼らが最後まで共に戦ったのは、その決断が五人とも偶然同じになった結果にすぎない。第49話に至って「おまえは残れ」「いや私も行く」などという会話をやっていたことは、象徴的である。

25.百獣戦隊ガオレンジャー(2001)

 5公0私(パワーアニマルに選ばれた者)
〔設定〕
 もし「神」が実在するのであれば、それは必ずしも人類の味方とは限らないであろう。
 走たち五人がガオレンジャーとなったのは、地球の命を守るために戦いたいという彼らの欲求と、大自然の精霊の化身たるパワーアニマルとの意志とが、大筋で一致したからである。だがそれが永久に続くという保証もない。大自然の意志が、(試すなどというのではなく)人類など滅亡したほうがよいという結論に達することはありうるし、もしそうなった場合、ガオレンジャーには無駄な抵抗を試みる程度の自由しかない。人間も自然の一部である以上、それに背いた自主的な行動などありえない。それが第40話である。
〔実際〕
 これはあくまでも大自然の精霊とオルグとの戦いである。人類はそこに参加させてもらっているに過ぎない。そこにおいて、人間の目には「奇跡」としか映らない、人智を超えた現象が頻繁に起こったとしても、別に不思議なことでは全然ないし、それを御都合主義などと批判するのは全くの的外れである。
 走たちは地球の命を守るために、自己犠牲をもいとわず戦いぬくつもりであった。だが肝心の大自然の方は、そんなことは求めてはいなかったし、そんな必要もなかった。オルグとの最終決戦にあたっては、人間ごときの智恵も勇気も何の役にも立つものではなく、いつものように奇跡が起こり、大自然の側が勝利したのである。別にガオレンジャーが頑張ったから奇跡が起きたわけでもない。ヒーローたちを全くの蚊帳の外においたまま、最終決戦の片がつくなど前代未聞の展開であったろう。