戦隊シリーズにおける戦士の役割分担(理論編)

―― 集団ヒーロー物・総論

(最終更新 2014.9.17)

戦隊役割分担表  五人組の集団ヒーロー物というのは、なぜこんなにも面白いのであろうか。
 1975年には、五人組のスーパーヒーローが活躍する『秘密戦隊ゴレンジャー』が大ヒット、それ以降もスーパー戦隊シリーズはわずかな例外をのぞき、常に五人を基本とした集団ヒーロー番組を送り続け、そして大きな成功を収めてきた。その三年前にはやはり五人組ヒーローアニメ『科学忍者隊ガッチャマン』の大ヒットがあり、これが戦隊シリーズの源流であるのは明白である。また『超電磁ロボ コン・バトラーV』に代表される合体変型ロボットアニメもまたこの系譜に属している。
 なぜ五人なのであろうか。
 根底にあるのは、チームを成り立たせるためには五つの役割というものが必要だ、という考えである。それが全部そろった時、チームは究極の完成形態を見せる。バランスの悪いチームというのは、空席になっている役目があったり、役なしの人間がいたりする。それに対して『ゴレンジャー』は五人全員が一つずつ役割を背負っている。そしてスーパー戦隊シリーズが大きな成功を収めてきたのは、この「五つの役割」を熟知しているからである……。
 ではその「五つの役割」とは具体的に何なのか?
 どうもそれがよく分からない。
 「ゴレンジャーの法則」とも呼ばれ、広く人口に膾炙している割には、具体的な法則の中身については、ろくに考察がなされているとは言いがたい。いろいろ本を読んでみても、「リーダー・ライバル・デブ・女・子供」だとか「熱血・クール・力持ち・女・若者」だとか、書いている人によってバラバラである。だいたい「熱血」とか「クール」というのはキャラクターの「性格」であって、「役割」ではない。「力持ち」は「特技」であって、「技の戦士」とか「頭脳派」とかと対立すべき概念のはずである。だいたいアカレンジャーを熱血などと言っている時点で、その人が『ゴレンジャー』を見たことのない人だということは明らかである。
 それに『ゴレンジャー』は確かに集団ヒーロー物として相当に完成度は高いが、究極の完成形というほどのものでないことは、戦隊ファンであれば誰もが知っていることだ。「ミドレンジャー現象」というものがある。戦隊シリーズでは毎年五人の戦士全員を個性豊かに描き分けようと努力しているにもかかわらず、毎年どうしても一人以上、あまり個性の目立たない戦士が出てきてしまう。これは『ゴレンジャー』に原因がある。『ゴレンジャー』がそうだったし、後続の戦隊もその影響を受けたからである。シリーズの歴史において、このことがあまり問題視されず見過ごされてきたのは、集団ヒーロー物においては四人もキャラが立っていればそれはもう大成功の部類に入るのであって、欠点に数えるほどの欠点ではないからだ。無論、五人全員がキャラ立ちしている戦隊もたまにある。それは四人しか立っていない作品よりもすぐれていると、一概に言い切ることもできない。全員が満遍なく扱われ、突出して魅力のあるキャラクターが生まれなかったという可能性もあるからである。
 ただ「ゴレンジャーの法則」は、考え方として根本から間違っている、というのではない。創作物においては、チームを描く際には各キャラクターの役割分担をきちんと決めておくことが最も大事なことであるというのは間違っていないはずだ。問題なのは、その各役割の内容が論理的に詰められていないことである。
 特撮やアニメのマニアでもない一般人にとって、五人組のヒーロー物と言われて浮かぶイメージはどんなものか。主人公とライバルという二人の実力者がいて、後はデブ・チビ・女が加わって五人、こんなところであろう。別にそれで構わない。大きく外しているわけでもないし。
 ただ、マニアがそれでは困るのである。
 冒頭に掲げた表は、『B-CLUB』1994年2月号、「超世紀全戦隊」特集号に掲載されたものである(「超世紀全戦隊」とは「スーパー戦隊シリーズ」の当時の呼称)。『ゴレンジャー』から、当時放映中であった『五星戦隊ダイレンジャー』までの全戦隊の戦士を、「主人公・ライバル・力・子供・女」の五類型に分類してある。
 今こうして見ると確かに問題は多い。「力」という分類の問題点については先に指摘した。無理矢理この五類型に押し込めようとしたところも多々見受けられる。ただ、これだけの表を作るという、その労力だけでも評価に値しようというものだ。最近ではスーパー戦隊に関する書籍の発行部数も増えたが、こんな表が載ることもない。カタログ的な知識が増えるばかりで、戦隊の面白さについて研究してみようという人たちも、1994年に比べて確実に水準が下がっているように思われる。
 さて本稿で議論の対象にするのは、「役割」、これだけである。それはチーム内においてどのような人間関係を形成するかによって判断される。メンバーの体格・性格・特技などは一切問題にしない。
 メンバー同士の関係性というものは、二つの面がある。一つは競い合い、一つは助け合いである。この相矛盾する二つの関係性を繰り込むことによって、チームはその機能を発揮することができる。
 そういう意味で、「リーダー・ライバル・道化・若僧・女」の五分類は、たたき台としては十分に使用に堪える。これを理論的に精緻化することで議論を進めたい。

1.リーダー・ライバル→〈主〉・〈準〉

 戦隊は、二強三弱がもっとも面白いなどと言われることがある。
 強力な統率力を持ったリーダーがいて、他の四人はそれに従うだけ、というのも別に悪くはない。しかしそれではあまり集団ヒーロー物としての醍醐味がない。チーム内に対立・緊張があったほうが断然面白い。かといって三つ巴(あるいはそれ以上)の争いになると、話が煩雑になりすぎる。というわけで結局、実力者が二人いる、というのが最も頻繁に用いられることになる。
 戦隊シリーズで「リーダー」「ライバル」という二つの役割が重視されてきたのも、この考えに則ったものであり、この稿でもそれを採用する。
 チームが結束して行動するためには、誰かが中心とならなければならない。そして、自分のやり方にみんなを従わせようとする。そのようなカリスマ性というかリーダーシップというか、支配力を最も強く持っているものがリーダーであり、二番目に持っているものがライバルである。
 作品によっては、ライバルは不在であったり、二人以上いたりすることもある。ただリーダーは常に一人である。もちろん理論上はリーダー不在の戦隊というのはありうる。そんな作品作っても、面白くならないのが分かりきっているからやっていないのか、それとも単に今のところやっていないだけなのか、ちょっとよく分からないが。
 ただ「リーダー」「ライバル」という名称については多少の問題がある。用語に混乱をきたしてはいけないので、前者を〈主〉、後者を〈準〉というふうに呼ぶことにしたい。
 というのは、劇中で「リーダーは誰々だ」と明言されているにもかかわらず、それが〈主〉と一致しない例がときどき見受けられるのである。新参者や最年少メンバーのくせに、何か事件が起きれば「みんな行くぜ!」と言いながら真っ先に出撃、他のメンバーも何やかんや言いながらそれに従ってしまう、というような。実質上そいつが中心になってチームが動いている以上、〈主〉であることは間違いない。ただ普通の日本語の場合、そういうのをリーダーと呼んだりしない。『三銃士』の四人ユニットがそれに近い。リーダーが誰かと言われれば、最年長者としての貫禄を見せるアトスであるのは間違いないが、〈主〉はあくまでもダルタニャンである。
 「ライバル」という名称の問題はさらに大きい。無口で協調性が欠如していてリーダーに反抗的というステロタイプなイメージが流布されているからである。戦隊では、リーダーを忠実に支える素直な性格のサブリーダータイプも多い。そういうのも〈準〉として一緒くたにしていいのだろうかという疑問は当然生じることであろう。
 戦隊においては、メンバー全員が対等・同格であるという大原則が存在していることを思い出してほしい。リーダーは他の四人に命令をして従えさせるのではない。実力があり、信頼関係が成立しているから、他の四人は自発的に従うのである。だから、別にリーダーに刃向かおうとか、自分がリーダーに取って代わろうとか全然考えていないサブリーダーであっても、リーダーに匹敵する実力を持っているというだけで、リーダーの統率力を危うくするのである。これが、階級の上下が存在し、命令と服従によってチームの結束が維持されているような集団ヒーロー物との違いである。
 「ライバル」よりも、ニュアンスとして〈準〉に近い言葉は「ナンバーツー」であろう。

2.道化・若僧→〈弛〉・〈緊〉

 前節ではメンバー間の対立という観点からチームについて論じた。しかしそだけではチームというものは成立しない。対立という面もあれば融和という面もある。要するにムードメークのことである。
 ムードメーカーというと、チームの雰囲気を和やかにし、リラックスしたものへと導く人のことにしか使わないが、よく考えたら、チームの雰囲気作りには緊張感とリラックスの両方が必要なのではあるまいか。そこでチームに緊張をもたらす要員を〈緊〉、弛緩をもたらす要員を〈弛〉としたい。〈緊〉と〈弛〉は別にチームの主導権を握ろうとして争うわけではない。両方ともチームにとって必要である。
 〈弛〉には朗らかさの他に、気配りにたけ、やさしく、甘えさせてくれるタイプなどが含まれる。〈緊〉には未熟な最年少者がすべてここに属する。あと生真面目で融通がきかないタイプなども。
 これは伝統的な役割名「道化」「若僧」とイコールではない。「道化」は〈弛〉の中の、「若僧」は〈緊〉の中の、それぞれ一つである。「道化」については説明は不要であろう。チームの雰囲気を和ませるには、道化役をやるのが一番シンプルで分かりやすい。〈弛〉の代表例になったのもうなずける。それに対し、「若僧」の存在意義については、従来もあまり目を向けられることはなかったように思われる。チーム内の最年少者であり腕も未熟な人間が、チームにどんなふうに役に立っているのか。未熟者であれば、当然性格は純粋で生真面目であろうし、それが他のメンバーに感化を及ぼすことが期待される。また、こいつを一人前に育ててやろう、そのためには俺も頑張らなければというプレッシャーをかけることもあったに違いない。
三銃士 ドカベン  この分類法は本当に役に立つのであろうか、〈緊〉か〈弛〉か区別がつきにくい者が続出するのではないかと予想していたら、実はそうでもなかったりする。確かに、現実には生真面目でかつ明朗な性格の人というのはいる。しかし戦隊シリーズで求められているのはフラットキャラクターである。五人も主人公がいるのである。その五人の性格は、視聴者に瞬時に把握できるような、分かりやすく、単純で、一面的なものでなくなはならない。二面性を持ったキャラクターの厚みなどというものは、純文学にでも任せておけばよいのである。
 それはそうと、古今東西のさまざまなグループヒーロー物に当てはめてみると、もこの〈主〉〈準〉〈緊〉〈弛〉の四類型はよくできているように思える。野球マンガやサッカーマンガでも主要メンバーは四人で、残りは「その他大勢」扱いされるというパターンが多い。となれば集団ヒーロー物の基本となるべきは実は四人ではないか。しかしこれでは戦隊の五人に一人足りない。そうするともう一つ分類項が必要のはずだが……。

3.〈女〉という役割?

 それが〈女〉だ、ということになるのだろうか。
 もともと集団ヒーロー物は男のものであった。そこに女が加わる。従来のグループヒーロー物は四類型を基本としていたが、それに新しく〈女〉を加え五類型とすることによって、集団ヒーロー物の新たな完成形が出現することになった、そのようなイメージで捉えている人も多いのではないか。
 しかし、「女」というのは役割の名前ではない。
サイボーグ009  確かに「女の役割」という言い方はある。しかしそれは「女を守って戦うのが男の役割、それを精神的にケアするのが女の役割」という言い方においてである。『サイボーグ009』における003がそれである。形式上はグループを構成するメンバーの一人であっても、実質的には男に守られる存在であるし、そこには対等の関係性など存在しない。そしてそのような性別役割分業を否定するところから戦隊ヒロインの歴史は始まったのだ。集団内おける紅一点だからというだけの理由で003もモモレンジャーも同じようなものだと決め付けてかかるような評論家がときどき見受けられる。議論の粗雑さにもほどがある。
 歴代戦隊を詳しく見ていくと、確かに女戦士が特定の役割を集中的に担ってきたという傾向はある。具体的にどんな役割かと言うと、他のメンバーが傷ついたときに励ましいたわるという優しさ、男たちに比べて体力的に劣りながらも頑張るところからくるひたむきさ・純粋さ。この二つである。母の役割と娘の役割と言ってもいい。しかし前者は〈弛〉の一種、後者は〈緊〉の一種である。わざわざ〈女〉という役割を独立して設ける意味はどこにもないはずだ。
女のエリア  面白いことに、男の場合は先述したように〈弛〉と〈緊〉を兼任することはない。斥力が働いて必ずどちらか寄りになる。ところが女の場合は逆に引力が働くのである。もともとが男の世界であったのだし、そこに女が一人入ってくるとなれば、「女らしさ」を強く意識したキャラクターにならざるをえない。そして〈緊〉〈弛〉兼務を不可とする原則もうっかり見過ごされてしまったのであろう。
 つまり、男の場合は〈緊〉か〈弛〉かどちらかに属することを余儀なくされ、そして両方にまたがることはできない。女であればそこに入ることができる。そしてそこに、まるで五つ目のポジションがあるかのように勘違いしたのが、〈女〉だったと言えるのではないか。
 性別が女であれば必ずこのエリアにいなくてはならない、ということではない。女らしく振舞おうとすればそうなる、という話であって、「女は女らしく」という概念にとらわれない女戦士を登場させたって一向にかまわない。エリアを突き抜けて、ギャグ要員や生真面目な学級委員長タイプになることも可能である。その場合には斥力が働いて両方を兼任することができなくなることは、男と同じである。場合によっては〈主〉や〈準〉になったっていい。
 さらに付け加えると、別に男が「可憐さ」や「優しさ」の役目を担ったところで別に構わない。両方を兼任することができないだけである。
 このように考えた場合、戦隊シリーズの歴史においても、やはり男には男の、女には女の役割というものがあったことが分かる。それは決して完全固定のものではないが、完全自由というわけでもないのである。
 〈女〉を分類項目とすることの問題点は、女戦士が長らく一人だけだったという事実によっても見えにくくされてきたと思われる。
 だったら、1985年に『超電子バイオマン』で女が二人になった時点でその問題点に気づくべきであった。先述の『B-CLUB』の記事では、それについて随分と相当強引な解釈をとった。女二人のうち一人は女の役割をつとめ、もう一人は、本来は男の役割(道化とか若僧とか)を男から奪った、というふうに。女らしい女と女らしくない女とでキャラ分けがしてあるのだと。だが、実践編では歴代の戦隊を詳しく見ていくことになるが、そんなふうなキャラ分けを試みて成功した例など皆無である。両方とも女らしいか、両方とも女らしさにこだわらないか、そのどちらかである。
 だが女二人制が登場するまでもなく、『ゴレンジャー』の時点ですでに〈女〉という役割が存在すると考えることのおかしさに気づく人は気づいていたであろう。つまり、それがミドレンジャー現象である。
ガッチャマン  ミドの個性が目立たない理由は簡単なことである。「未熟だがひたむき」というキャラクター付けがモモと重なり、そしてモモのほうが目立っているからである。仲間の足手まといになるまいと、必死に頑張っているのはどちらか。モモのほうがミドよりも年上でキャリアも上だが、筋力・体格の性差の前ではそんなものは問題にもならない。『ガッチャマン』と比較すれば一目瞭然であろう。甚平は十歳の子供であればこそ、個性を目立たせることができたのだ。
 こんな簡単なことに対する指摘がなかったのも、〈女〉という役割が存在するものだという先入観によって目を曇らされていたからとしか思えない。同じポジションに二人いて、片方が男で片方が女だからといって、キャラ被りが回避できるわけではないのである。『ゴレンジャー』の〈弛〉ポジションはそれとは対照的だ。棲み分けは、キが滑稽さでモモが優しさというふうになされていたのだから。

4.六番目の戦士→〈外〉

七人の侍  1992年の『恐竜戦隊ジュウレンジャー』以降通例になった追加戦士についても触れておこう。
 ここまで積み重ねてきた議論はすべて全員が対等・同格であることを前提にしてきた。追加戦士は、出自、戦うことの目的、戦士になるに至った経緯といった点で、既存メンバーとは多少の差をつけるのが原則になっている。同じノリで一年間番組を続ければ視聴者に飽きられるので、それを防ぐために投入されるものであり、だから新戦士は、集団に新たに対立・緊張をもたらすための要員ということに役割はほぼ限定される。
 そのような「半分部内者・半分部外者」の存在を組み入れた集団ヒーロー物の最大の成功例は、なんといっても『七人の侍』であろう。この場合、勘兵衛と久蔵が〈主〉・〈準〉の対抗関係にあり、この二人を含めた六人が、さらに菊千代と対抗関係を形成するという、入れ子の構造になっている。
 戦隊シリーズにおける追加戦士も似たようなものである。名づけるとすれば〈外〉とでもなろうか。追加戦士は必ず〈外〉だし、追加戦士でないものが〈外〉にくる事もありえない。これ以上深く論じることもないので、実践編ではすべて省略した。

付.〈補佐〉について

ガンバの冒険  戦隊とは関係のない話になってしまうが、『七人の侍』についてあと少しだけ触れておくことにする。
 集団ヒーロー物の最高傑作、ではなく、日本映画史上の最高傑作と呼ばれている作品である。七人はいずれも個性的であり、全員がその役割に応じて力をふるい、強固なチームワークのもとで戦う。集団ヒーロー物を語るなら絶対に見ておかなくてはならない映画。実際この稿も、『七人の侍』を大きく参考にして書いたものである。しかしそんなすごい作品と言われながら、七郎次と五郎兵衛の役割はと問われれば、即答できる人は少ないのではないか。
 二人の役割は、リーダーの補佐である。勘兵衛の古女房である七郎次が情の補佐、参謀の五郎兵衛が理の補佐。勘兵衛のリーダーシップに単に従うだけではなく、勘兵衛がリーダーシップをふるうのを助ける役目である。もともと勘兵衛のリーダーシップは高い。その上補佐が二人もいれば、最高の結束力を持つグループが出来上がるのも当然と言えよう。
 しかし戦隊シリーズにおいては〈補佐〉という役割をつとめている者は見つからない。
 理由として、その役割の重要さにもかかわらず、強い個性を持ったキャラクターとして描けないことが挙げられる。リーダーを補佐するということは、自分の色を前に出さないということである。実際映画でも、この二人がもっとも目立っていないと言われることが多い。
 それに、戦隊シリーズでは、そこまでガチガチにチームワークを固めることもない。ある程度バラバラのほうが、各人の個性は描きやすくなる。
 戦隊以外にも目を向けると、七人のグループヒーロー物においては、やはり『七人の侍』をなぞっているものが多い。だが、やはりそこでも補佐要員は省かれ、〈緊〉や〈弛〉を二人置いたりしていることが多いようである(例に出したのはテレビアニメ『ガンバの冒険』)。

 実践編では、この理論を歴代の戦隊作品に当てはめてみることにする。