第一章 「内助の功」は本当に必要とされたのか

(最終更新 2008.1.1)

 桃園ミキ以前にかわいい女の子が特撮番組に出ることは皆無であった、というわけではない。
 単に魅力の多寡を言うのであれば、彼女程度なら他にいくらでもいたと言う人もいるかもしれない。
 だいたい、魅力的な女性キャラを登場させてドラマに厚みを与えることは、脚本家にとっては腕の見せ所であるわけだし、撮影の現場のスタッフにとっても美人の女優がいたほうが嬉しいに決まっている。ヒーローの助手や同僚や恋人といった役で起用された彼女たちは、劇中で多くの出番を与えられ、その中には名キャラクターとして視聴者から高い人気を得た者もいる。
 であるにもかかわらず、特撮ファン以外にとって彼女たちの存在はほぼ完全に無視されていた。
 特撮ヒロインの歴史について論じるのであれば、1966年から始めるのが通説ということになろう。ウルトラシリーズが始まった年である。もちろんそれまでのヒーロー番組においても、女性登場人物がレギュラーとして出てはいた。ウルトラシリーズにおける防衛隊の女性隊員が特撮ヒロインの元祖と呼ばれているのは、劇中で物語の展開において重要な役割を与えられた史上初のヒロインと見なされているからである。(*1)
 視聴者に与えた存在感も、それまでの女性登場人物とは段違いであった。今なお『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』について、当時子供であった自分が彼女たちに対して幼い胸をいかに激しくときめかせていたか、初恋にも似た感情にどれほど胸を熱く焦がせてテレビの前にいたかについて、興奮気味に語るファンは多い。
 それほどまでに魅力のあるヒロインであったなら、「俺は当時怪獣番組なんぞ見る年齢ではなかったが、友里アンヌ目当てで『ウルトラセブン』を見ていた」などと言うような人間も大勢いたに違いない、と現代の特撮ファンならば思うところであろう。ところが、そういう話は聞かないのである。女優のファンになった人はいただろう。たまたま番組を目にしてそこに出ていた女優が気に入ってしまい、彼女が芸能界で大きくはばたくことを期待して声援を送るようになった者であるとか。じゃあそこで、その女の子目当てに番組を毎週見るようになったかというと、そういう話は聞いたことがない。「『ウルトラセブン』が好きでその結果として友里アンヌが好きになった」者たちが、その思い出を語る時の口吻の熱さに比べて、「友里アンヌが好きでその結果として『ウルトラセブン』が好きになった」者はなぜ見当たらないのか。この落差は一体なんなのか。
 もちろん、昔は子供以外にとっては、特撮ヒーロー番組などという「幼稚な」ものを見ることに対する心理的な敷居が今よりもずっと高かったということもあるだろう。どうせ子供番組なんだから深みのあるキャラクターなど出るはずがないという思いこみに目を曇らされ、彼女の魅力に食指が動かなかったという人もいたに違いない。だがそれ以上に重要なことは、そもそも当時のスタッフは彼女たちにそういう種類の魅力を持つことなど最初から求めていなかったということである。では何を求めていたか。作品の魅力を高めるためのスパイスとしての役割である。スパイスは直接口に入れるものではない。
 具体例を挙げて説明する。『ウルトラセブン』の第49話「史上最大の侵略(後編)」において、最後の決戦に挑む直前にモロボシ・ダン(=ウルトラセブン)がアンヌと行なった会話は、特撮番組史上最も感動的なシーンの一つに数えられている。我々はこのシーンのどこに感動するのか? ダンが、彼をいたわるアンヌのやさしい言葉を振り切って、地球を侵略しようとする敵と戦うためにボロボロの体を引きずり戦地に赴こうとする点にである。その崇高な自己犠牲の精神に、見る者は胸を打たれるのである。それに対して我々はアンヌに対して別に何ら感動するわけではない。「行かないで」と言った。じゃあダンが行かなかったらアマギ隊員はどうなるのか? ゴース星人の侵略からどうやって地球を守ったらいいのか? 彼女に何か妙案があって「行かないで」と言ったわけではない。単に感情的になって言っただけである。地球の平和を守るために戦うウルトラ警備隊の隊員でありながら、アンヌはここではただの無力な女の子であって、ダンの戦いにとっては傍観者でしかなくなっている。
 そもそもヒロインとは何なのか。
 元来特撮ヒロインは、励ましたり癒しを与えたりして、ヒーローの戦いを精神的な面で支えるためのものとして生まれたものである。
 だからこそ、ウルトラヒロインが画期的だったのである。地球の平和を守るために戦う一員だったのだから。ウルトラシリーズはヒーロー番組としてはさまざまな点で画期性を打ち出し、子供たちに大人気となった作品であるが、防衛隊の一人一人に明確な個性が与えられ、そこで繰り広げられる人間ドラマに大きな比重がかけられていたというのもその一つであった。そしてその隊員の一人が女性であったわけである。ヒーロー番組というものは、敵(怪獣であったり悪の組織であったりする)とヒーローとの戦いが物語のすべてである。それと直接関わること以外でどんな深遠なドラマが展開されようが、すべて添え物である。ウルトラヒロインは、特撮番組におけるストーリーラインに関わることのできた初めてのヒロインなのであって、フジ・アキコや友里アンヌたちが特撮ヒロインの祖として扱われているのも、このことが理由である。
 ただし。
 それもまた限定的なものでしかなかったということは、肝に銘じておく必要がある。『ウルトラマン』はあくまでもウルトラマンの戦いの物語なのであって、ウルトラマンと防衛隊が力を合わせて怪獣から地球を守る物語ではない。主体はあくまでもウルトラマンであって、防衛隊はそのお手伝いでしかない。ウルトラマンの戦いが視聴者の感動をさそうのは、彼が地球の平和を守ることに対して一人で全責任を負って戦っているからである。たとえ体がボロボロになっても、立ち上がって戦わなければならない、その緊張感が視聴者の胸を揺り動かすのである。防衛隊も確かに戦闘機に乗って怪獣に爆撃をくらわせたりして、ウルトラマンの戦いを援護したりするが、それに対して我々がさほどの感動を呼び起こされないのは、彼らが好きなときに退職する権利を留保しているからである。
 『ウルトラセブン』第49話に話を戻すと、ここでアンヌは旧タイプのヒロインへと先祖返りをしている。もちろん、それが悪いわけではない。アンヌとの会話における、彼女の「たとえウルトラセブンであっても、ダンはダンにかわりはない」という愛情に満ちた言葉はダンを大いに勇気づけ、改造バンドンと戦うための力を彼に与えたであろう。では、もしあの場面でアンヌが何か違うこと、たとえばダンを大いに消沈させるようなことを言っていたら、どうなっていたであろうか。
 やはり、ダンは別に変わりなく改造バンドンと戦ったはずである。
 何十億もの地球人の運命を背負ってダンは戦っているのだ。アンヌに言われたことによって、やる気が起きたり起きなかったりしたら、それこそ無茶な話である。結局ここでもまたアンヌは傍観者なのだ。
 ここで特撮作品全般に話を戻すが、そういう「ヒーローを精神面でサポートする役目のヒロイン」ほど、番組において存在感があるようでいて、実は存在感のないキャラクターも、他にないのではないだろうか。
 確かに、戦いで傷ついたヒーローに癒しや安らぎを与えるという役割は、確かに重要なことには違いない。ヒロインの愛情に満ちた行為が、ヒーローに戦う勇気を与えるというシーンは、これまでの特撮ドラマにおいて何度も何度も描かれたものである。だが、それは仮に番組のドラマ性を盛り上げることには役に立っても、そうやって内助の功で尽くすヒロインに視聴者があこがれたり魅力を感じたりすることなどありえないのである。なぜか。ヒーローにとってはそういうものはあれば嬉しいには違いないが、なければ戦えないというほどのものではないからである。ヒーローはあくまでも平和や正義のために戦っているのであって、別にヒロインからの愛を受けたいと思って戦っているわけではない。もっとも中には、平和だの正義だのといった抽象的なお題目なんかのために命を賭けるヒーローなどリアリティがない、それよりもヒロインの心の中に永久に生き続けたいという欲求のためにヒーローが戦うとしたほうが面白くなる、などと言う人もある。人間には自己犠牲という精神があることを知らない者の言である。
 「内助の功」という価値観そのものを全否定したいわけではない。一般ドラマにあっては、それが物語を左右する重要なファクターにしばしばなりうる。しかしそれは、男女が一緒に幸福を目指すような物語に限っての場合である。男は女を物理的に守って戦い、女は男を精神的に励ます。お互いがお互いを必要とする、互恵的関係である。男が命をかけて何事かを成し遂げようとする話だと、事情は違ってくる。戦いに敗れれば自分は死ぬ、という緊張感と常に共にあるヒーロー。だがヒロインはヒーローを励まし損ない、ヒーローに力を与え損なっても、別に自分が生命の危機にさらされるわけではない。生死を共にしていない二人の間に、心の絆など存在するわけがないのである。たとえ二人の間が表面的にどれほど親密さに満ちていようとも。
 そんなこと言われても、ヒーローの戦いを支える美しい魅力的なヒロインが出てくる物語は世界中にあるではないかと反論したくなる人もいるかもしれない。それは、ヒーローが死ねば自分も後を追って死ぬという覚悟を決めているヒロインのことであろう。たとえば日本で言えば戊辰戦争。若松城落城の際に多くの女性が自刃して果てた行為を、愚かしい悲劇と言ってしまえば簡単なのではあるが、しかしそれが武家の妻として、武家の娘として「節に殉ずる」という行為であったわけである。(*2) そして「節に殉ずる」などという道徳自体が封建制の遺物として忘れ去られようとしている今、アンヌに「ダンが死ねば自分も死ぬ」という覚悟を要求することなど出来るはずもない。ダンが死んだらアンヌはまた自分を守って戦ってくれる別のヒーローを待つだけであり、そしてやがてダンのことを忘れるのである。無論、ダンとしてもそれに文句などあろうはずもなかった。
 ウルトラシリーズのヒロインたちは、地球防衛隊の一員として、戦闘に参加するという面をも持っていたがためにまだ存在意義を発揮することができた。だが他のヒーロー番組で、単なるヒーローの恋人であるとか長官の娘であるとか、別に何か専門の技能を持たないヒロインの場合はさらにその存在感を薄くする。1971年に始まった仮面ライダーシリーズが、ウルトラシリーズと並んで大成功したシリーズでありながら、ヒロインの不毛地帯と呼ばれているのは、それが原因である。『仮面ライダー』(1971年)の緑川ルリ子は、本郷猛(=仮面ライダー1号)をショッカーによる脳改造から救ったために命を落とした緑川博士の娘。『仮面ライダーV3』(1973年)の珠純子は、風見志郎(=仮面ライダーV3)の家族がデストロンに皆殺しにされる原因になった女。設定だけ聞けば、いったいどれほどのドラマチックなストーリーがヒロインの存在を媒介にして繰り広げられるのだろう、と期待させるのばかり。だがどれほどドラマチックな運命を背負わされていようが、どんなに細やかな愛情を持った性格をしていようが、戦闘機の一つも操縦できないようでは、ヒロインはストーリーの本筋に関わることは決してできないし、視聴者の心にインパクトを与えることもない。そしてことごとく設定が雲散霧消してしまったり、途中でテコ入れのために切られたりしたのであった。
 こういった状況を、特撮ヒーロー番組を作っているスタッフが女性差別的な考えを持っているからだと問題にする人もいる。スタッフの中にはそんな批判を真に受けて、ヒロインのほうがヒーローよりも地位が高かったり、ハキハキして行動力があり男よりもずっと頼もしそうなキャリアウーマンとして描いたりすることがある。そして「最近の女性の力が強くなった世相を反映させた」などという評価を得て満足したりするのである。だが、そんなことをしたところで、結局ヒーローと敵との戦闘が開始されれば、命がけで戦っているヒーローに対して、ヒロインはヒーローに対して声援を送る程度のことしかできないという構造には、何の変わりもなかったのであった。
 ここまでの話をまとめる。ヒロインはもともと「ヒーローの戦いを精神的に支える」存在であり、そうである以上「それ自身の魅力」を持つことはありえなかった。ウルトラヒロインは「ヒーローと共に戦闘に参加する」という面も持っていた。そして「それ自身の魅力」を持つ可能性を感じさせ注目された。しかし実質的には旧タイプのヒロインと変わるところはなく、成功もあくまでも旧タイプのヒロインとしてのものであった。
 いや、ウルトラヒロインにも一人だけ例外があった。『ウルトラマンA』(1972年)の南夕子である。男女合体変身という、きわめてアクロバティックな形ではあったが。しかしこの大胆な設定は、視聴率低迷のあおりを受けてテコ入れのために半年で切られることになった。『ウルトラマンA』の最大の目玉になるはずであったその設定がついえ、そして急激な設定変更が物語の整合性をズタズタにし、それにもかかわらず、路線変更後の視聴率は上昇する。それ以後、ウルトラシリーズにおいて男と同格のヒロインはただの一度も現れていない。
 勘違いしてはならないのは、これまで書いてきたことは、特撮ヒロインの造型に失敗した例を挙げようとしているわけではないということである。魅力的なヒロインを出せば番組のドラマ性が高まると書いた。だがそれは、ヒロインの存在によってヒーローの背負うドラマがより一層重厚なものになるという意味であって、彼女たち自身がドラマを背負うという意味ではない。別にそれで何の問題もなかった。意地が汚くて自己中心でヒーローに迷惑ばかりかけるヒロインを登場させることによってヒーローの英雄性を高めることができるのであれば、当然そうすべきなのである。
 ただそれとは別に、ヒロイン自身に魅力があるような、そんなキャラクターを出したいという試みもまた続けられてはいた。ウルトラヒロインはその動きから早々と離脱したという、それだけのことである。
 1970年代に入ると、その試みの一つとして、ヒーローのパートナーとして一緒に戦うヒロインがポツポツと現れ始めることになる。ヒーローと同じく特殊な能力を持ち、変身して戦うヒロインたちの登場である。
 とはいうものの、彼女たちは下級戦闘員が相手の時ぐらいしか勝てず、それより上級の敵怪人が出てくれば手も足も出ないというのが通例であった。前線での奮闘にもかかわらず、結局は男主人公の足をひっぱり、人質になってヒーローに助けてもらうことによってヒーローの強さを引き立たせ、ヒーローに「この娘を守るためにも、俺がいっそう強くならねば」と奮起をうながす、という役におさまってしまったのであった。元の木阿弥である。いやむしろ後退していたかもしれない。弱いくせに正義感だけは一人前、進んで危地に飛び込みあげく人質になって足を引っ張るヒロインなど、ヒーローにとっては迷惑なことはなはだしい。これなら大人しく基地で通信とかのデスクワークとかに従事してもらっていたほうが、どれだけマシかわかったものではない。
 パートナーはパートナーでも、あくまでも彼女たちは格下パートナーであった。
 『仮面ライダーストロンガー』(1975年)に登場した電波人間タックルが、仮面ライダーに認定されるかされないかが問題となったのは、この時期の特撮界の試行錯誤を象徴するものであっただろう。
 雑誌などで歴代の仮面ライダーが取り上げられたり、イベントが行なわれたりすることがある。そこでタックルの勇姿が見られることはない。正義のために戦った改造人間であっても、仮面ライダーではないからである。
 『仮面ライダーストロンガー』という番組名からも明らかなように、これはストロンガーの物語なのである。ストロンガーとタックルという二人の改造人間が力を合わせて戦う物語、ではない。劇中では一貫してタックルはストロンガーより格下の存在として描かれていたし、能力という点でタックルがストロンガーよりはるかに劣る以上、それは視聴者にとっても納得のいくものであった。格下パートナーではあっても格下パートナーなりに精一杯戦い、そして死んでいった彼女にとって、仮面ライダー8号の称号などそれこそどうでもいいことだったはずだ。名誉だの勲章だの、そんなもののために彼女は戦っていたのではない。
 ところがどうしたわけか、番組放映後「タックルはなぜ仮面ライダーの名を贈られなかったのか」などという疑問の声がさまざまな場でとりあげられるようになる。
 放映当時は、女が男と同格の戦士になぞなれるわけがないというのは、作り手にとっても受け手にとっても常識に属することであり、議論の対象ですらなかった。(『ウルトラマンA』の挫折についてはすでに述べた。)だが、おそらく、格下パートナーは格下パートナーである以上、どんなに一生懸命あがいても「それ自身の魅力」を持つヒロインにはなりえないということに、作り手も受け手もだんだん気づき始めたのではないか。だから、タックルもまた対等パートナーだったということにしておきたくなったのではないか。
 放映が終了して10年後に、プロデューサーの平山亨氏が『宇宙船』1986年8月号でタックルに仮面ライダーの名が贈られなかったことを「城茂(=ストロンガー)の唯一の伴侶にしておきたいと願ったゆえの行為」として正当化するという解釈を試みたのも、そのような声に応じたものであったのだろう。(*3) タックルの戦いぶりは、仮面ライダーの名を贈るに値しないものであったから贈らなかったというわけではない、と。もっともそんなことをしたところで、タックルが格下パートナーであったという事実には何の変わりもなかったし、ファンにしたってそのような弥縫策に果たして納得したのだろうか。
 この問題の経緯には、一つの特撮番組の存在が背後にあったことを感じさせる。『ストロンガー』と全く同じ日に放映が開始されたその番組は、それまでの特撮番組の常識を大きくくつがえすニューヒーローを誕生させた。そして、それまで誰もが不可能と考えていた、男と同格である女戦士を登場させたのである。しかもそれは高い視聴率を記録する、大ヒット番組となり、そしてシリーズ化され、後続の番組もまた今までの特撮番組の常識の殻を打ち破るヒロイン像を、次から次へと登場させる。そして特撮ヒロインの歴史は全く新しいものへと塗り替えられることになったのである。
 ではそれは何という番組であったか。
 それについて触れる前に、では特撮ヒーロー番組はかくも長い期間、女が男と同格の戦士になることをなぜそれほどまでに拒み続けなければならなかったのかについて、詳しく見ていきたい。