第二章 格下パートナーという憂鬱

(最終更新 2008.1.1)

 なぜヒロインは男と同格の戦士になれなかったのか。
 普通に考えれば「弱いから」である。
 世の中には、男と女との間に能力の差があるということを断固として認めようとしない人たちもいるが、それでも体格・筋力についてだけは、男が女よりもすぐれているということを認めぬ者はいない。
 特撮ヒーロー番組の舞台はあくまでも戦場なのである。地球の支配をもくろむ、強大で残虐な敵が爪をといで待ちかまえている荒野に、何の必然性があって肉体的に男より格段に劣る女が送り込まなければならないのか? 男と同格であるよりは、ぶざまに男の足を引っ張り足手まといになるほうがよっぽど女戦士として自然である。もちろん、女でも強い人はいるだろう。格闘技や剣技の達人の女であるとか。しかしそれらの高段者の女であっても、それよりはまだ初段者の男のほうが役に立つというものである。
 ……しかしよく考えてみれば、こんなのは全然回答になっていないことに気がつくはずだ。別に男と同量の戦闘をこなせなんて誰も言ってないのである。女のパワーが男の半分しかないとしても、ヒロインが半分も敵を倒してくれるのであれば、男のヒーローは一人で戦うのに比べて負担は3分の2になる。こんなに減ってくれるのであれば大助かりだ。これで同格のパートナーと認めるのに、何の差し障りがあるというのか。たとえピンチになってヒーローに助けられてばかりいるヒロインであったとしても、それでも10回に1回でいいから、ヒーローのピンチをヒロインが救うような話があれば、それはお互いがお互いを必要とする、対等のパートナーであると言えるのではないのか。しかしこの時期のヒーロー番組は、ヒロインはひたすらヒーローの足を引っ張り続けるばかりだった。
 このことを、制作スタッフがどのように考えていたかについては、よく分からない。男が自らの命を危険にさらして悪と戦っている間、自分だけ安全な場所でヒーローの戦いを応援する限り「それ自身の魅力を持つヒロイン」にはなりえないと前章で書いたが、だからといって戦いさえすればいいというものではないだろう。戦うたびにピンチになってヒーローに助けられてばかりのヒロインを見ていると、最初の4、5回はまだよくても、それ以上繰り返されると「どうせピンチになっても助けてもらえるわと、甘ったれた気持ちで戦ってるんじゃないか」と、視聴者に不快な気分を与えることについて、作り手の側はどう考えていたのだろうか。
 男に比べて女の戦闘能力なんて、戦場にあっては吹けば飛ぶようなものだから、などという言い訳は通用しない。今論じているのは特撮ドラマなのである。
 たとえば、特撮ドラマには「強化スーツ」というアイテムがよく登場する。着用しさえすれば、普段の何倍ものパワーを発揮できる、というものである。サイボーグ手術を受けて改造人間に強化されたヒーローもある。アンドロイドであるとか、あるいは宇宙人に憑依されて特殊な能力を持つようになったとか、宇宙人そのものであるとか、人間なのだが特別な家系の出身で超能力を持っているとか。とにかくヒーローというのは普通の人間ではない、なにか特殊な能力の持ち主であり、それゆえに戦士としての使命を受けているのである。女の戦闘能力が吹けば飛ぶようなものだというのは、あくまでも普通の人間においての常識であって、普通の人間ではないヒーローものにおいては女が相応の戦力を有しておかしいことは何もない。
 単に肉体の強靱さで男と女とで差があるのを問題にするのであれば、それはテクノロジーによって解決可能なはずだ。
 一口に強化スーツと言っても色々な種類があるのだが、たとえば、着用した人間の中枢神経に作用し、筋力をアップさせる効能を持つものがある。骨格はもとのままであるから、女性的な体の動きが改善されるわけではない。腕や脚の長さが伸びるわけでもないから、パンチやキックの破壊力が増したところで限度はある。強化スーツを着用したところで、男の変身ヒーローと完全に同等の戦闘能力を持つことは出来ない。だが、その程度のことは別に重要視することでもないだろう。
 ここで問題にするのは、そういうレベルの話ではない。
 『仮面ライダーストロンガー』のタックルが何の改造人間であったのかを思い出されたい。
 てんとう虫である。
 そりゃ弱いはずである。ストロンガーのほうがカブト虫という、いかにも強そうな昆虫の能力を移植された改造人間であることを思えば、タックルが足手まといにしかならなかったのも当然であろう。大きな角を頭上にいただくストロンガーのいかにも強そうな姿に対し、鋭い牙も棘も持たない丸っこいデザインのタックルは、見た目にも明らかに弱そうであった。
 タックルが弱いのは、女だから弱いのではない。性能の低い改造手術であったから弱いのである。
 じゃあ、ブラックサタンはそんな弱い改造人間を作って何に用いるつもりだったのだろうかとか、そんな彼女をなぜストロンガーはパートナーと認めたのかとか、いろいろ疑問がわいてくる。
 特撮番組に限った話ではない。マンガやアニメのヒーロー物を広く見渡せば、強化スーツにしろサイボーグ手術にしろ、女だけ劣った性能のものしか与えられないというケースは結構頻繁に見受けられるのである。
 石ノ森章太郎のマンガ『サイボーグ009』(1964年)はその中でも最も有名なものであろう。赤ん坊である001はいろんな意味で別格的存在だから別にして、残りの8人のサイボーグ戦士のうちなぜか一人だけ、戦闘能力が増強されていないのがいるのである。高速移動・怪力・口から火を吐くなど、一人一人に特殊な能力が与えられている中、視覚聴覚器官の改造などという、近接戦闘には関係のない能力をなぜか付与されていたのが、サイボーグ戦士の紅一点、003・フランソワーズであった。
 ここで私は作品のあら探しをしたいわけではない。以上に述べたようなことは、理屈を付けようとすればいくらでも付けられるのである。
 では、なぜ劇中でその説明をしないのだろうか。
 ヒーロー物においては、主人公はその作品世界において最高のテクノロジーによって武装しているのが普通である。地球の平和を守るなどという、重い使命を背負っているのであれば当然のことであろう。しかし例外も少なくない。サイボーグ手術を行なっている最中にアクシデントが発生してやむをえず不完全な改造人間になってしまったとか、敵の襲来が予想していたより早かったために急遽試作品の強化スーツで間に合わせざるをえなかったとか。もし何の説明もなく、低い性能のテクノロジーで戦うヒーローがいたとしたら、いったいどんな理由があるのだろうと、視聴者は興味をそそられ、説明を欲することになる。
 ところがそれが女戦士の場合だと、なぜかなんの説明もなく話が進むのだ。
 女が戦力にならないのは、肉体の強靱さという点で男より劣っているからというだけではない。もう一つ、女が戦士となるために欠けているものがあるのだ。そしてそれはどんなに高度な技術力をもってしても埋めることができないものなのである。
 では一体その問題とは何か。
 女が戦士に向いていないというのは、肉体的に向いていないだけではない、精神的にも向いてないのである。
 正義のために自らの命を捨てて戦うなどという心理は、男性特有のものであり、女性には理解できないものである。
 以上のように考えられていたからである。
 戦士の心を持たない者は、戦士の力を持つことはありえないし、あってはならない。これはヒーロー物における大原則である。
 電波人間タックルが、てんとう虫などという弱そうな昆虫の能力を移植されてしまったのは仕方ないとして、弱いけれども弱いなりに勇敢に戦ったのであれば、また評価は違ったものになっていただろう。
 勝機の薄い戦いと知りつつ自分よりはるかに強大な敵に立ち向かっていくというのは、ヒーロー物の見せ場であるが、タックルにそのようなシーンがなかったかというと、そんなことはない。確かにあった。ただそういうシーンが出るたびに、見ている人間の印象に残るのは、なぜかタックルの軽率さだけなのである。同じことをストロンガーがやったならば、その勇敢さに素直に感心できるのにもかかわらず。
 いったい何が問題なのか。
 ヒントは『ストロンガー』第30話「さようならタックル!最後の活躍 !!」にある。自らの死が近いものであることを悟ったタックル=岬ユリ子が、しかしそれを隠して、ストロンガー=城茂にコーヒーをいれる、という有名なシーン。ユリ子は茂に言う。
 「いつか悪い怪人たちがいなくなって、世の中が平和になったら、2人でどこか遠い、美しいところへ行きたいわ」
 もしこのセリフが、茂や、あるいは歴代仮面ライダーの誰かによって発せられたとしたらどうだっただろうか。ヒーローにふさわしくない、めめしい発言だと問題になったことであろう。毎週毎週、自らの命を危険にさらして戦っているヒーローであるなら、自分自身の命や幸福を大切に思う感覚なんかとっくの昔に麻痺していないとおかしいのである。
 このシーンに、我々視聴者が涙するのは、タックルが結局は最後まで戦士になれなかったという事実をつきつけられるからである。彼女が改造人間になったのは、おそらくブラックサタンに拉致され自らの意志に反して改造手術を受けさせられたからであろう。戦士の資質など持っていなかったにもかかわらず、そんな彼女が戦士たろうとして必死に戦い、力およばず倒れた、その悲しい運命に同情するのである。
 タックルとよく比較されるのが、『仮面ライダーV3』に登場するライダーマンである。V3がライダーマンに仮面ライダー4号の名を贈ったのは、自らの命を犠牲にして東京をプルトン爆弾による壊滅から救ったからである。正義のためには自分の命など惜しくはないという、その精神は仮面ライダーの名に確かにふさわしいものであった。だから、タックルも自分の命を犠牲にしてドクター・ケイトを倒したという話にしておけばよかったのだ。だが制作スタッフは彼女にライダーマンほどの英雄的な死を与えはしなかった。彼女はケイトの毒を浴びた時点で死ぬことが確定しており、そこでどうせ死ぬのであればケイトを道連れにして死のうと思ったのであって、それは「自分の命を捨ててケイトを倒した」というのとは少し違う。そしてその少しの違いが、仮面ライダーの称号を贈られる贈られないの差なのである。
 タックルは劇中では一貫して、命知らずの勇気を持った少女としては描かれてはいなかったし、だから彼女が強大な敵に立ち向かうのは、勇敢さのゆえではなく、軽率さのゆえとしか視聴者は感じられなかった。タックルはこの回で退場するのであるから、作り手の側としては感動的な死に方をさせてあげようと考えたことであろうし、であればせめて最後くらいは自らの命を顧みぬ英雄として彼女を描いてあげてもよかったはずだ。しかしそうしなかった。
 女を、死をも恐れぬ勇気を持った戦士として描くことだけは、何があってもやってはならないことであったのだ。
 なぜそこまでこだわらなくてはいけないのか?
 死をも恐れぬ勇気などという崇高な精神性は、男のような高級な生き物しか持つことのできないものだからだ、などと考える人たちもいる。
 だが、真相はそのような大したものではない。人間が社会を営み発展させていくにしたがって、そういう「死をも恐れぬ勇気」を持つ必要が男たちには生じた、女はそうではなかった、それだけの話である。
 話の順序としては逆である。だいたい「死をも恐れぬ勇気」など、黙っていたら誰も持ちたがらないものである。こんなものを持っていたところで、当人にとってはいいことなど何もない。祖国のために勇敢な活躍を見せて大きな勲功を上げ、昇進し、胸は勲章でうずまるかもしれない。で、それがどうしたというのか。そうなったときには本人は大抵の場合死んでいる。死んだ後でどんなにたくさん勲章をもらったところで、いったい何の意味があるのか。つまり、放っておいたら誰も持ちたがらないからこそ、これは高級な精神なのだ、これを持つことは素晴らしいことなのだ、と必死になって宣伝し、教育を行なう必要があるのである。
 致死率の高い病原菌みたいなものである。このような奇妙な心理を、人間が進化の過程でどうやって獲得するに至ったのかについては、よく分かっていない。分かっているのは、持つ必要があったということだけである。かりに、自分の命が何よりも大事だ、死んでから勲章なんかいくらもらっても意味がない、という極めて合理的な考えを持っている人間だけで構成されている国や民族があったとする。あっという間に近所の異民族に侵略されて滅ぼされたことであろう。死なない程度に手柄を立てて家に帰りたいと思っている兵隊によって構成された軍団と、死んで祖国の礎にならんと腹をくくった兵隊の軍団とが戦ったらどちらが勝つか、結果は最初から見えている。(*1)
 地球上に今まで存在した膨大な数の民族。それらにとって、「死をも恐れぬ勇気」を持つ人間を構成員として含むことは、生き延びるための絶対的な条件であったであろう。そのような人間は、自然に生まれてくるのではない、そのように教育した結果として生まれてくるものである。もっとも、全員がそんな勇気を持つようになったら、それはそれで困る。生き延びて次の世代を産んで育てる役目を引き受ける者も必要だ。そのような勇気を持つのは、男だけでいい。なぜなら、戦争は力仕事である、そして肉体的に男の方が女より優れている、説明はこれで十分であろう。
 弓矢や刀ぐらいしか武器がなかった古代人にとっては、戦争が力仕事であったことは言うまでもないが、これだけ科学技術が発達し、戦闘機だのミサイルだのが戦場を飛び交う現代においてすら、やはり戦いは「男の仕事」なのである。重たい荷物を持って戦場を走り回る歩兵の存在なくして戦争などありえないし、それを機械化するほどには、まだ科学は発達していない。女性兵士の数が各国の軍隊でどれだけ増えようが、戦争のもっとも苛酷で危険な部分だけは男だけに担わせている以上、戦争が男の仕事であるという観念が覆るわけではない。もし覆る時が来るとすれば、それこそ強化スーツが現実のものとなったときであろうと言われている。各国の軍隊もその実用化に向けての研究にしのぎを削っているわけだが、実現するのはまだまだ先の話であるらしい。
 地球上のすべての地域、すべての時代において、生命を賭して自らの集団を守るために戦うことは男の職業であった。そして今後も当分はそれが続くことであろう。
 そうである以上、男には男用の、女には女用の教育が必要なのである。
 男には男らしく、女には女らしくという教育が行なわれていない民族など地上には存在しない。もちろんその概念の中には、不合理な因習に基づいたものも多いであろう。それらは改革していく必要がある。ともかく、「命の重さ」などという、人生観の根本に関わるところで男と女との間に差があるというのであれば、平時においても、それが男女の思考や行動の様式に影を落としていることは、想像に難くない。
 今現在戦争やテロに明け暮れている国にあってはもちろんのこと、現代日本のように、世界でも最も戦争の起こる確率が低い国においても事情は大して変わらない。確率が低いといってもゼロではないからだ。戦争なんぞ起こらない方がいいに決まっているし、起こらないように最大限の努力を払うことを怠るべきではない。しかしそれでも起こってしまったら、自分たちは一銭五厘の価値しかない存在になるのだということを、男なら誰でも日々の生活を送りながら薄々と感じているはずだ。
 マンガやテレビ番組といった児童向けの娯楽作品に目を通しても、そういうことはよく実感できる。男向けと女向けとで傾向の差があることは一目瞭然である。ハッピーエンドの定義からして違う。少女マンガでは主人公が幸福になることが最終的な目標であるのに対して、少年マンガでは主人公が理想や使命を果たすまでの戦いが描かれ、そのあと主人公が安楽な生活を送ったかどうかなどということは関心の対象外であり、場合によっては生き延びることができたかどうかすら描かれないこともある。少年マンガにおける「命」の扱われ方の軽さ、こんなものを少年期に浴びるように読んだらどういう精神構造が形成されることか。何かにつけ「子供たちに命の重さを伝える教育を」という風潮のかまびすしい昨今、これがなんで国会あたりで問題にならないのか不思議なくらいだが、問題にならないということは、つまり「これでいい」と皆思っているということであろう。
 男は男らしく、女は女らしくという社会通念が行き渡っているからこそ、男と女とでは好む作品に差が出るのだ、とも言えるし、このような作品が子供たちに男らしさ・女らしさという概念を教え込んでいる、とも言える。そして特撮ヒーロー番組もまた、このシステムの一翼を担っていることは言うまでもあるまい。
 ヒーロー番組においては、いくら特殊な能力を持ったスーパーヒーローといえども、生まれ育ちは普通の人間である。ヒーローが日本人であれば、「男は男らしく、女は女らしく」という社会通念に今までどっぷり浸って育ってきた、その影響から逃れることは不可能であろう。いざという時には男は大切なものを守るために命を惜しんではならないという教育を平素から受けてきた男に対して、幸福な家庭を築くことが人生の最終目標という教育を受けてきた女が、ある日突然戦士としての使命を授かって強化スーツを渡され、これを来て宇宙人の侵略から地球を守るための戦士になりなさいと命じられ、男と比べて遜色のない活躍をしてしまったりなんかしたら、男の立つ瀬がないではないか。
 ヒーロー番組において、女戦士が男より劣位の存在のように描かれることを、女性差別的と感じる人がいるようなのであるが、どうも「正しい心さえ持っていれば誰でもヒーローになれる」という誤解があるのではないか。もっとも、そのような誤解を生じさせるような作品が氾濫しているのも問題なのであるが。
 ヒーローものの第一話によくあるパターンとして、それまで平凡な生活を送っていた、なんの取り柄もない男が、ある日突然戦士としての使命に覚醒し、戦士になってしまうというのがある。しかし、宇宙人だとか異次元からの侵略者だとかによって、地球が滅亡の危機にさらされている時に、何十億人もの人間の運命を両肩に背負って戦うなどという任務が、並の精神力を持った人間に務まるものでないことは、少し考えたら分かりそうなものなのだが。鋼の精神力を持った人間を選抜して戦士に任命したのか、戦士に選ばれた人間がたまたま鋼の精神力を持っていたのか、作品によって色々なパターンは存在するが、いずれにせよすぐれた作品であるならば、このへんの描写がないがしろにされることはない。
 勇気、克己心、忍耐力、行動力。鋼の精神力は、教育や訓練、経験の積み重ねによって鍛えられるものであって、本当になんの取り柄もない平凡な人間が戦士になれるわけない。こうやってわざわざ説明するのも馬鹿馬鹿しいのだけれども。
 死にたくないと思うのは人間にとって自然な感情である。自分一人が犠牲になることによって、大勢の人間の命が助かるという状況に自分が置かれたと想像してみるがいい。頭では理解していても、実際死の恐怖を前に足がすくんで体が動かなくなるのが普通だ。正義のために命をかけると、口で言うだけなら簡単なのである。
 弱虫で臆病な人間ではあっても、愛する人を守りたいという気持ちさえあれば、勇気は自然に湧き死の恐怖は消え、力は全身にみなぎるはず、などと考える人もいるようである。考えるのは勝手だが、しかし正義のヒーローは、前章でも少し触れたが、あくまでも正義のために戦っているのであって、別に愛する者を守るために戦っているのではない。正義のために戦うというのは、不正義によって苦しんでいる人がいれば、それが自分にとって一面識もない人であっても、たとえその人が自分にとって大嫌いな人間であっても、その人を救うために戦うということである。そんな人を助けるために、自分の命を犠牲にしても構わないということである。家族だとか恋人だとか、自分の愛する人なら守りたいが、そうでない人は別に守りたいと思わないような人間は、ヒーロー番組なんぞ見ない方がよろしい。
 戦士にとって必要なのは、フィジカルの強さと、メンタルの強さ。前者の不足は強化スーツやサイボーグ手術で補うことはできる。しかし後者の不足をどうにかすることはできない。
 女は戦士には向かない。どんなすぐれたテクノロジーをもってしても、これを覆すことはできないと書いた。これがその理由である。
 いや、もちろん技術的に不可能というわけではない。脳に作用し、死が恐くなくなるような物質を分泌するような作用を持つ強化スーツがあっていけないことはない。しかし、そんなものまで出してしまったら、もう何でもアリになってしまう。なんの苦労もなく努力も要らず、やる気さえあれば誰でもヒーローになれてしまう世界。そんなストーリーを見て一体誰がハラハラドキドキすることができるのであろう?
 さきほど「ヒーローが日本人であれば」と書いた。別にアメリカ人でもエジプト人でもニューギニア人でも同じことが言える。戦士は男の仕事であるという社会通念の存在していない社会など、地球上に存在しない。それどころか、ヒーローが宇宙人やアンドロイドの場合でも同じである。
 もし宇宙人の描写に本格的に力を入れるのであれば、性別が3つあったり、性別などという概念なんぞ超越していたりする宇宙人を出した方が、それっぽいような気もするのであるが、現実問題としてそういうのを出すのはほぼ不可能であろう。テレビ番組、あるいは小説でもマンガでも、創作作品の登場人物というものは、受け手にとって感情移入できる存在でなくてはならないし、性別が3つあるような宇宙人がどのような社会体制を築き、どのような人生観を持っていて、どのような文化を発展させているのか、説得力を持って描き出すのは大変である。かりに成功したところで喜ぶのは極少数のマニアだけなどということになりかねない。
 で結局の所、性別は2つあって、体格に優れた方と劣った方とがあり、「男(に相当する方の性)は強く、女(に相当する方の性)はやさしく」という社会通念が支配する世界を形成している、などという所に落ち着いたりするのである。地球から何億光年と離れた星の生物が、なんでそんなことになっているのか、よくよく考えてみればこれほど無茶苦茶なこともないのであるが、それはそれで仕方がない。実際、性別という概念を超越した宇宙人を描こうとして失敗した『ウルトラマンA』という前例もある。
 ヒーローがアンドロイド(要するにロボットである)という場合に至っては、もう何も付言することはないであろう。
 話を本筋に戻す。では結局の所ところ、女がそのような死をも恐れぬ勇気、戦士にふさわしい精神を持つことは絶対にありえないのであろうか。
 今までの議論では、女が戦士の精神を持たないのは、そういう教育を受けることがないからであると述べた。ということは、そのような教育を受けさえすれば、女もまたそういう精神を男並みに持つことが可能になるのだろうか?
 可能かもしれないし、可能でないかもしれない。
 最新の脳科学は、男と女とで脳の構造や機能に差があることを明らかにしているし、男女の行動や心理の差がある程度生まれつきのものであることは定説になりつつある。ただし、男らしさ・女らしさの概念のうち、具体的にどういうものが、生まれつき何%・環境教育何%で決まるものなのかについては、現状ほとんど分かっていないといっていい。(*2) 自信たっぷりに、男らしさや女らしさというものは100%先天的に決まってますとか、100%後天的に決まりますとか書いてある本は、科学の装いをまとった政治的プロパガンダ本だと思って間違いない。(もちろん前者が保守派、後者が改革派である。)
 今までこの稿で積み上げてきた議論から確実に言えることは、戦士の精神、死をも恐れぬ勇気は、そういう教育を受けねば絶対に持つことはないということである。そして通常社会は女にそういう教育を受けさせたりはしない。戦士として教育したところで、肉体の強靱さで男に劣るという事実がある以上、どうせ二流の戦士にしかならないことが最初から分かりきっている。費用対効果が悪すぎるからだ。
 では、こっそりと女でありながら男用の教育を受ける者がいたらどうなるか。
 それこそが、男と対等に戦う女戦士となる可能性のある唯一の存在ということになるはずだ。もちろんこれは可能性であって、そのような教育を受けたけどやっぱり女である以上無理だった、という可能性もある。
 実はこれはマンガではよく使われているアイディアであって、しかもこれが結構成果を上げているのである。その中でも池田理代子『ベルサイユのばら』(1972年)は、この問題に真っ正面から切り込んだ作品といえる。女が男として育てられれば、男の精神を持つようになるかというと、やはりそう簡単にはいくものではないようである。
 オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ。生まれたときから男として育てられる。彼女自身はそれに対して不満もなく、男と何の変わりもなく武官として仕事に打ち込み充実した日々を送っている。少なくとも自分ではそう思っている。しかし革命前夜、パリの緊張が高まるにつれ、彼女の耳に入る雑音がやがて彼女のアイデンティティをゆっくりと引き裂き始める。今のあなたの感じているのは、本当の女の幸せではない、と。
 その「女の幸せ」とは何か。
 恋をし、愛する夫や子供たちとぬくもりに満ちた家庭を築くことである。
 しかし、これは「男の幸せ」と何が違うのだろうか? 何も違わない。愛する妻や子供たちとぬくもりに満ちた家庭を築きたいという願望は、男であっても普通に持っているものである。違うのは、男の武官の耳にはオスカルと違って雑音など聞こえてこないということである。
 正義のために命を捧げる決心をしたとはいえ、いざ実際に戦場で死の恐怖を前にして、臆病風に吹かれるなどということは、よくあることである。しかし男が「逃げたい」などと口にすれば「貴様はそれでも男か!」と怒鳴られぶん殴られるだけの話である。そうして男の「死をも恐れぬ勇気」はますます磨かれ強固なものとなっていく。では、女だったら?
 女の子なんだからそう思うのは仕方ない、逃げなさい、いや是非とも逃げるべきだ。このように言われることになる。
 それどころか、別に逃げたいなんて一言も言う前から、君は心の奥底では本当は逃げたいと思っているはずだ、君は強がっているだけだ、などとさえ言われる。
 普通に男として生まれ武人として育てられることに比べて、それはどれほど残酷な運命であったことであろう。なまじ選択肢がある(ように見える)分だけ、武人として生きることに、より一層大きな意志の力が必要になるわけである。そもそも生まれた瞬間からずっと男として育てられたオスカルにとって、今さらになって普通の女性として生きるなど、それはそれで問題が多すぎるのである。
 女に完璧な「男用の教育」をほどこせば、それは男とまったく変わらない精神を持つようになるのかというのは(あるいはその逆は)、理論の上ではきわめて興味深いテーマではあるが、現実問題としてそのような問いは無意味であろう。外部からのノイズを完全にシャットアウトするわけにはいかないからである。
 オスカルの場合は、ジャルジェ家の都合によって戦士になれという宿命を背負わされたわけであるが、さらにその上に、国全体を支配している社会通念というものがあって、それが彼女に戦士になるなと命じるのである。そしてジャルジェ家はそれを完全にはねのけることはできない。
 結局彼女はそのために傷つき、悩み苦しみ、そしてその結果として「軍神マルスの子として」生きることを改めて決意する。このマンガはおそらく、戦うヒロインの内面をもっとも深く掘り下げた作品の一つといっていいであろう。
 このような優れたマンガと比較されると、特撮ヒーロー番組の場合は女性心理の描写に深みを欠くという印象を受けないこともない。じゃあ、『ストロンガー』にもオスカルのようなヒロインを出せば成功したかと言われれば、それはそれでやはり難しかったと思われる。『ベルサイユのばら』は少女マンガであるが、少年マンガにおいても女戦士をどう扱うかは大きな関心の的であり、武論尊・原哲夫『北斗の拳』(1983年)に登場するマミヤもその一人であった。『北斗の拳』は『ベルサイユのばら』とは正反対に、女戦士の存在意義を真っ向から否定する。ところがオスカルとマミヤ、実はけっこう似ているのである。というか、2人の苦悩は瓜二つと言っていいくらいである。違いはどこにあるのか。『北斗の拳』では暴力がよりいっそうむき出しになった世界が描かれている。『ベルサイユのばら』でオスカルが本当に「死」を隣人と感じながら戦場をかけめぐるのは、この大長編マンガの最終盤だけなのだから。
 特撮ヒーロー番組では、命を賭けた戦いが一年間延々と続く。その間、ヒロインの耳元で「女の幸せ」が絶えずコッチヘコイ、コッチヘコイとささやき続ける。それが彼女の行動力や決断力を始終鈍らせるだろうし、ぶざまなミスを繰り返して仲間の男たちの足を引っ張るにちがいない。仲間としてもこんなヒロインに対しては「もう戦うのはやめろ」と言いたくなるであろう。
 そもそも、いったいなぜそこまでして、男と対等に戦うヒロインを登場させねばならないのだろうか?
 強くてかっこよく活躍をする女の人を出せという、その願い自体は極めて自然なものには違いなかった。しかし、女が戦士となって戦うことは、男がそうすることに比べてはるかに辛くて苦しい道であること、肉体的にきついのは想定内ではあったであろうが、精神的なきつさはそれをはるかに上回るものであることについて、正確な見通しを持っていた者が果たしていたかどうか。
 だが、もはや後戻りは許されなかった。
 70年代前半、特撮やアニメで「女ヒーロー」を望む声がかつてなく高まったことについて、東映の平山亨プロデューサーは、女児層の存在を挙げている。もともとヒーロー物などというものは男の子のための番組であるが、女児であってもこのような番組を好む子たちは存在し、しかし制作者の側は彼女たちの存在をあまりにも無視しすぎていた。氏は言う、子供たちどうしでゴッコ遊びをやれば、女の子たちは怪人の役とかしかやらせてもらえない、彼女たちだってヒーローになって戦いたいと思っているに違いない、と。(*3)
 女として、男に守ってもらえるのであれば、そのほうがはるかに楽だし安全ではある。しかしそれは自分の運命を自分の手で握ることを放棄することになることに、子供心にも気づいていたことだろう。
 しかし男児にとっても事情は似たようなものではなかったか。男の子は当然ヒーローに同化して番組を見る。そして男たちが命がけで戦っている間、自分たちだけのうのうと安全な場所にいて、死にもの狂いで戦っている男たちを見つめるだけ女には、それがどんなに美人であろうが、どんなに美しい心をしていようが、もう飽き飽きしていたのではなかったか。それよりも、戦場で生死を共にする仲間としての女の人がいれば、それはどれほどの魅力を持つものになるのであろうかと想像しなかっただろうか。そしてそれは、戦うヒーローたちの光を反射して輝く「月」ではなく、自らの内側から光を放つヒロインになるに違いなかった。
 男に守られるヒロインではない、男とともに戦うヒロインは、いずれ登場せねばならなかった。そして70年代前半、それを待望する思いはマグマの奔流となって、出口を求めていた。
 そして1975年、それは噴火口に辿り着いた。番組の名前は『秘密戦隊ゴレンジャー』、のちにスーパー戦隊シリーズ第1作と呼ばれることになる作品である。