第三章 仕方なく選ばれた戦士

(最終更新 2008.2.6)

 1975年『秘密戦隊ゴレンジャー』が放映開始。チームを組んだ5人の戦士の活躍を描いたこの番組は、それまでのヒーロー物の常識をくつがえし、子供たちから熱狂的な歓迎を受け、常に20%近くの視聴率をとる大ヒット番組となった。
 このように書かれることが多いために、まるでそれまで「集団ヒーロー物(あるいはグループヒーロー物)」というものが存在せず、『ゴレンジャー』によって初めて切り開かれたかのような印象を持っている人もいるようであるが、『水滸伝』『三銃士』『八犬伝』『七人の侍』等々、昔から親しまれているジャンルである。特撮やアニメのテレビ番組に目を向けると、『サイボーグ009』(1964年)、『忍者部隊月光』(1964年)、『レインボー戦隊ロビン』(1966年)、『科学忍者隊ガッチャマン』(1972年)……。
 妙なことに気づかないだろうか。番組タイトルがグループ名ではなく、個人名からとられているのが多いことに。(「ガッチャマン」は大鷲の健のみを指す呼称。)
 集団で戦いさえすれば集団ヒーロー物になるわけではない。ウルトラマンは科学特捜隊の援護を受けながら怪獣と戦っていたから集団ヒーロー物なのだろうか? 武器の開発とか情報の収集とかで仲間の協力を全く仰がないヒーローなどというものが果たしてどれほどいるものか。卓越した能力を持つ3人のスーパーヒーローの登場する作品であったとしても、その中の1人だけにスポットライトが当たる描き方をするのであれば、受け手にとってはそれは単体ヒーロー物と大して変わらないのではないか?
 大勢の人間が関わる中、複数の事件が同時進行するのが現実の常である。それから枝葉をすべて切り捨て、一般人とは異なるずば抜けた能力を持っている1人の人間を設定し、その視点のみによって世界を記述することが可能になるということに、ヒーロー物のカタルシスがあるのである。それは集団戦・組織戦の織りなすドラマとは原理的に相容れないものである。無理にやろうとするならば、それはたとえば5人のスーパーヒーローを登場させたところで、そのうちリーダー格の一人が物語の中心に居座り、4人の仲間は脇役的な場所に落とし込まれるという描き方にならざるをえない。それで面白ければ別に構わないのであるが、それでも視聴者にとってそれは単独ヒーロー物に比べて特に新鮮に感じられるものになるわけではない。
 企画がなかなか通らなかったのも、そういう懸念があったからだろう。1975年におけるテレビ業界のネットチェンジという混乱に乗じることがなければ、『ゴレンジャー』は永久に日の目を見ることはなかったかもしれない。(*1)
 新しい集団ヒーロー像確立にむけて注意が払われたのは、「5人のヒーローが力を合わせて戦う」のではない、「5人が力を合わせて初めて1つのヒーローになる」という描き方をすることにあった。そのためにスーツのデザイン、ネーミング、武器・能力の設定といったあらゆる点に、「1人1人は不完全な存在である」というふうにしようという作り手の一貫した意図を読み取ることができる。そしてこの企画の最大の発明は、合同必殺技「ゴレンジャーストーム」であったと言っていいであろう。
 複数のヒーローが力を合わせて敵の怪人を倒したところで、やはり怪人に最後の一撃を加えた者だけが目立ってしまい、他の者が脇役みたいな印象を視聴者に与えることをどうすることもできない、これが従来の集団ヒーロー物の限界であった。ならば、フィニッシュを5人全員で決めることにすればいい。敵の怪人を倒すためには、ゴレンジャーストームを繰り出さなければならないが、それは5人のうち1人でも欠けていては出せない。「5人全員が力を合わせて初めて勝利することができる」ということが、ヒーロー番組においてこれほどまでに明瞭に視聴者の前に示されることはなかった。
 一つだけ問題があった。5人全員が力を合わせることによって勝てるということを強調すれば強調するほど、「1人では弱い」「1人では勝てない」という印象を視聴者に与えることになる。『ゴレンジャー』の成功を目にして生まれた亜流作品には、やはりこういう批判を気にしていたような節が見受けられ、いずれも大した作品にはならなかった。そして『ゴレンジャー』と、そしてその後続作品が大きな成功を収め、「スーパー戦隊シリーズ」の放映が今なお続いているのは、そのような批判に一切耳を貸さなかったからである。
 5人がかりで1人の怪人に必殺技をたたきこんでいると、確かになんか卑怯そうな感じがするのである。しかし、そもそも人類全滅を目的とする黒十字軍との戦いの火ぶたが切って落とされたその時に、半人前(正確に言えば5分の1人前)の集まりに地球の運命を託さざるをえないという緊急事態なのである。そのようなことを気に掛ける余裕などあるものか。1対1で戦うのでなければ卑怯だというのであれば、科学特捜隊の援護を受けて怪獣と戦うウルトラマンは卑怯なのか? 一人の犯罪者を大勢の人間がよってたかって追いつめる刑事ドラマはなぜ非難の対象外なのか? だいたい、戦隊物であっても敵の怪人は大勢の下級戦闘員を引き連れているのが普通であって、単に人数の多寡を言うのであれば敵の方が多いという事実を無視してよいということにはなるまい。
 まあこれも、フィニッシュを決めるという、最も見栄えのするシーンを5対1という構図にしてしまった以上仕方のない面もある。しかし、初放映からもうすでに30年経った今になってもまだ「5対1は卑怯」というツッコミ芸で笑いがとれると思っている人を見ると、さすがに見ていて恥ずかしくなってくるのだけれども。
 『ゴレンジャー』は、それまでにない新しい集団ヒーロー像を開拓したという点において、歴史に残る革命的な作品であったが、その過程でペギー松山=モモレンジャーという、全く新しいヒロイン像を産み出すことになったという点においても、やはり革命的な作品であった。そのことを、しかし、作り手の側は特に明確に意識していたわけではなかったように思える。それはあくまでも偶然そうなったというだけで。
 モモレンジャーの革新性は、そのスーツデザインからも明らかである。『ストロンガー』のタックル、あるいは『ザ・カゲスター』(1976年)のベルスターに代表されるパートナー型ヒロインが、マスクからはみ出た口元やミニスカートから伸びる太ももといった部分に生身の体を露出させていたのは、もちろん男のヒーローに比べて弱そうというイメージを出すためである。それに対してモモレンジャーは仲間の男とほぼ同じデザインで、色だけが異なるスーツを着用していた。そのあてがわれた「桃色」という色は、かわいらしく優しいイメージを持った色でありそこに「女の子らしさ」を感じさせはしたが、これとて赤・青・黄・桃・緑の五色の中の一つという以上の意味はなく、色じたいが何か価値判断を含んでいるわけではない。(これはマスク中央のハートマークについても同じことが言える。)
 戦士全員が「○○レンジャー」(○○には色の名前が入る)という、単純な規則に従って名付けられた名前を持っていることも、全員が対等というイメージを強めるものであった。
 そのような配慮にもかかわらず、モモレンジャーが5人のなかでは一番下に位置づけられる戦士であるということは、視聴者にとっては一目瞭然であった。モモのマスクの額に「4」という数字が書かれていることから分かるように、当初の設定では4番目の戦士という位置づけであったし、ミドレンジャーは少年兵であることが強調されるはずであった。それは石森章太郎(石ノ森章太郎)のマンガ版に痕跡をとどめている。(*2) しかし現実問題として女よりも弱そうな男を登場させようと思ったらそれこそ10歳の子供でも出さざるをえないし、それはそれで問題山積であろう。ペギー松山役に小牧りさ(のちにリサ)氏が選ばれたのも、アクションのうまさを買われてのことではあったが、それでも力強さという点では男に劣るのは隠しようもない事実であった。そして実際話が始まって見ると、モモは男たちから明らかに劣る戦闘能力ゆえに、ピンチになって仲間の男たちに助けられることしばしばであった。(そしてミドの方はというと「特徴がない」というありがたくない評価を受ける羽目に陥った。)
 にもかかわらず、なぜモモレンジャーは男と対等の戦士であったと言えるのか。
パワーバランス  たとえば『ストロンガー』におけるタックルと比べて、彼女が優秀な戦士として描かれていたというわけではない。従来のパートナー型ヒロインと比べてみても、戦闘能力という点において大した違いがあるようには見えない。何が違うかと言われれば、それは状況である。『ストロンガー』においては別にタックルがいなくてもストロンガーだけで敵を倒すことができるのに対し、『ゴレンジャー』においてはモモレンジャー1人がいなくても敵を倒すことができない、それだけの差である。そしてその差こそが、モモレンジャーをそれまでのどんなヒロインとも違う、男と対等に戦う戦士にしたのである。
 第16話「白い怪奇!鏡の中の目」や第40話「紅の復讐鬼!地獄のモモレンジャー」は、いずれもモモが敵の黒十字軍の仮面怪人から集中攻撃を受ける話である。(もちろん弱いから狙われるのである。)痛めつけられ、ボロボロに傷つきながら、しかしそれでも彼女は歯を食いしばって立ち上がり、戦うことをやめようとはしない。なぜか。誰か1人でも欠けていればゴレンジャーストームを繰り出すことができないからである。
 正義と平和を守るために戦うこと。その使命は5人全員が背負わされているものであるが、女であるペギー松山・モモレンジャーの両肩に食い込むそれは、他の男たちに比べて一段と辛くて苦しいもののように見える。だが、仲間が彼女をかわいそうに思って重荷を代わりにかついであげることは絶対にできない。たとえどんなに痛めつけられ、傷つけられようが、黒十字軍の侵攻を前にして、ベッドで寝ていることは許されない。命尽きるまで戦うこと、これは5人全員に等しく課せられた義務であり、使命である。そしてその点において、彼女は仲間の男たちと対等・同格の戦士であったのである。
 たとえば『ストロンガー』にしても、敵の怪人をストロンガーよりほんのわずかだけ強くし、タックルの助力を得てやっと勝つことができる、というふうに戦力を微調整しておけば、タックルもまたストロンガーと同格の戦士になれたであろう。しかしそれはそれでわざとらしく、無理を感じさせるものになったに違いなかった。5人の戦士が選抜される、その中の5番目の戦士、というのは女戦士のリアリティを保つギリギリのラインであったのである。
 ところで、男と対等同格の立場を得た女戦士なら、モモレンジャーの前にすでにいたではないかという指摘がアニメファンからなされるかもしれない。『科学忍者隊ガッチャマン』(1972年)の白鳥のジュンである。しかも5人からなるグループヒーローの1人という点まで同じである。さらに一年後の『キューティーハニー』(1973年)では、なんと単独で戦うヒロインまで登場させている。
 彼女たちが大人気キャラクターになったのも、「男に劣らない戦うヒロインを見たい」という期待に応えたものであったからであるし、その意味でモモレンジャーの姉妹ではあった。しかししょせんそれらは、現実においては女は男にかなうはずはないのであるから、せめてフィクションの中だけでも女がかっこよく活躍する話を見て、現実の憂さを晴らしたいという、そういう視聴者の欲求を解消するためのものであった。
 いやそんなこと言うんだったら、『ゴレンジャー』もフィクションだろうと反論されるかもしれない。
 ここには、アニメという表現方法それ自体がはらむ問題がからんでいるのである。
 白鳥のジュンが、仲間の男と同格の戦士であることが可能だったのは、男と同等の戦闘能力を有していたからである。これはつまり、科学忍者隊の強化スーツは、秘密戦隊の強化スーツよりも性能がいいのであろう、女が着ても男と同じ戦闘能力を発揮できるということは。ジュンが戦士として優秀なのは、科学忍者隊の科学力がすごいからなのであって、別にジュンがすごいからではない。いや、もちろんジュンもすごいのだろうけど、それでも彼女が格下扱いを免れることができているのは、強化スーツという架空のテクノロジーのおかげであることは疑いない事実である。
 そして番組を見た女の子たちが、ジュンにあこがれて、彼女のように自分も戦いたいと思ったところで、現実にはそのようなテクノロジーなど存在しないことを知れば、あきらめざるをえないと思い知るであろう。
 『キューティーハニー』に至っては、そもそもそれを「女戦士」と呼んでいいものかどうか。アンドロイド、つまり単に女の形を模しただけの機械ではないのか。機械であれば、それが男をしのぐスーパーパワーを持ったところで、それがどうしたというのか。
 特撮番組の撮影においては、変身したヒロインの中には男が入っている。こう聞いて驚く人も昔ほどはいないであろう。女が入ることもあるが、それでも特に激しいアクションをこなす場面では、男に代わってやってもらわないとどうにもならないらしい。男が入って、わざと女っぽい動作を演じるのである。
 なんでそんなややこしいことをするのか。強化スーツというのは着用した人間の戦闘能力を高めるためのものなのだから、モモレンジャーに入った男が力一杯アクションをし、大股広げて暴れ回っても、別に理屈の上ではおかしいことはない。強化スーツは筋力を増強させるだけではなく、骨格を変型させる作用もあるのだと言い張ればいいのだ。しかししょせん理屈は理屈である。見ている人間にとってはどうしても違和感は残る。女性らしい動きを出そうとし、その結果としてアクションから力強さが欠けてもそれはそれで仕方がないことなのである。
 アニメではそのような心配は不要である。「絵」は「写真」に比べて情報量が格段に少ない。すぐれた表現力を持った演出家の手にかかれば、作り手が伝えたいと意図した情報だけを抽出して視聴者に伝え、それ以外の情報はすべてノイズとしてシャットアウトすることが可能になる。女が男並みのパワーを発揮したアクションをやって、視聴者にそれを違和感として感じさせないなどという芸当が可能になるのはアニメならではのことである。
 これは当然のことながらアニメの「長所」である。
 このような長所を生かすことによって優れた娯楽作品を生み出し、見ている者にすばらしい感動や興奮を与えながら、しかしそれはその場限りのものにしかならず、しょせんこれはフィクションなのさと、現実を生きる人間の心に何も跡を残さないなどという事態がアニメでは起こりうるのである。(*3)
 では現実とは何か。
 前章では、女が男と対等の戦士になれないのは、女が戦いに向かないからであると述べた。
 世界中の国の軍隊で、男女の平等が実現しているところなど存在しない。女性兵士の戦闘行為への直接関与は、法律やら規則によって一律に禁止されているのが普通である。(もちろんそれが昇進の速さなどにも関係するわけであるが。)このことについて、戦場というのは男のロマンであり戦士の団結は男同士の友情によって支えられるものだから、女は入れるなという理由で擁護するのが右派、女は生命をはぐくみ慈しむ性であるから女は戦争に反対しなくてはならないという理由で擁護するのが左派である。どっちにしろ単なる感情論である。戦争そのものに反対するというのであれば非常に結構、しかし戦争根絶のために何か行動を起こす気もないくせに戦闘に参加しないというだけで平和主義を気取る連中ほど始末におえないものはない。もし日本に外国の軍隊が攻めてきたら、男にだけ戦わせておいて女はそれに守られて自分たちだけ安全な場所にいて「平和を愛する女性は戦争には参加いたしません」などと平和の歌でも口ずさんでいるつもりなのだろうか。それは当然「女は二級市民であり、人権など不要」という主張とセットのものにならざるをえないが、右派は別にそれで構わないにしても、左派はそれでは困るのではないのか。
 女が戦闘行為への従事を許されない理由は、単なる効率の問題に過ぎないに決まっているではないか。
 戦争というのは、戦闘だけやればいいというものではない。物資の輸送や軍需品の生産、医療、通信、情報収集などにも莫大な人手が必要になる。女は戦いに向かないのであるから、戦闘以外の行為で貢献するのがよい。男女それぞれが自分の得意とする分野で能力を発揮することが、社会全体の利益を最大化する方法である。
 男のロマンだの女は生命をはぐくむ性だのといった主張に比べれば、この論は一見説得力があるように思える。
 話をヒーロー番組に戻すと、たとえば『ストロンガー』におけるタックルというのは、たとえ女であっても戦う勇気は持たなければいけないという、作り手のメッセージが込められたキャラクターのような感じはある。罪のない子供たちが殺されそうになっているのを目の前にして、女だからという理由で黙って見ていてよいはずはない、たとえかなわなくとも立ち向かっていかなくてはならない、というふうに。ところが視聴者にとっての彼女の印象というのは、どうせかなわないんだから大人しくしてろ、女のくせに戦いの場にしゃしゃり出てくるんじゃない、というものでしかなかった。
 ズレの原因はどこにあったのか。
 タックルがピンチに陥ると、必ずどこからともなく口笛が聞こえ、ストロンガーが助けに来てくれる。問題はそこである。ストロンガーが駆けつけてくることが絶対に確実だから、タックルが戦う意味がないのである。
 現実、女がピンチになれば必ず男が助けに来てくれるなどということがあるわけがない。助けに来てもその男が弱くて歯が立たないかもしれない。女を見捨てて男たちだけ逃げてしまうことなど絶対にありえないと誰が保証してくれるというのか。もしそうなったら、しかし男は別に構わないだろう。反省して、次からはがんばろうと思うだけだ。しかし女はどうなるのだ。おとなしく殺されていろということか? 分業したほうが効率がよく、社会全体にとって利益になると先に述べた。だからといって、人間にとって最も大切な「生命」すら分業に委ねようとするならば、当然このような事態は起こりうるものとして考えておかねばならない。そしてその上で、本気で「戦いは男の仕事」などと口にするつもりなのか。
 前章で述べた『ベルサイユのばら』のオスカル。自分の人生について苦悩し傷つく彼女だが、自分が辞めたらフランス軍はどうなるんだろうということで悩むことはなかった。当時の超大国フランス王国にとっては、一人ぐらい辞めたところで、代わりをつとめる有能な軍人はいくらでもいたであろう。では、これが仮にポーランドだったらどうだっただろうか。周囲をとりかこむ3つの大国に国土を奪いつくされ、1795年には一度滅亡した国である。オスカルがポーランドの武官だったとしたら、女として生きるべきか武人として生きるべきかなどという悩みは、はるかに小さいものになったに違いない。なにしろ戦わねば国がなくなるのだ。(*4)
 女だから戦わなくていい、女の幸せは男に守ってもらうことだ。そんな言い方が通用するのは、富裕な国における富裕な軍隊であればこその話なのである。
 女が戦士になれないのは、肉体的・精神的に向いていないからであると述べた。肉体のハンデについては、これはもう克服不可能なものである。
 しかし精神面はどうだろうか。
 正義や平和を守るために戦うことが「主として」男によって担われるべきものであることは否定しない。しかし、目の前で正義と平和が踏みにじられ、多くの人々が苦しんでいるまさにその時に、私は女だから戦うことは仕事ではありませんと、黙って見ていられるのだろうか。悪を憎む心に、男と女とでそんなに差があるという話は聞かない。もちろん戦うといっても男と同じように戦い、男と同じだけの戦闘量をこなせるわけではない。誰もそんなことは要求していない。しかし自分の命を捨てて、死にもの狂いで立ち向かい、男たちと協力することによって正義と平和を守ることができるという場合はありうる。そしてそのような時でさえ、女は戦いには向かないから戦わない、と言い張るのか。「死をも恐れぬ勇気」は、男だけのものであって、女には不要なものであると言いきることはできるのか。
 『秘密戦隊ゴレンジャー』が視聴者につきつけたものは、そういうことである。
 平和を守るための戦いは、男だけの力で十分であるとして描いたのが『ストロンガー』とすれば、男だけでは不十分と描いたのが『ゴレンジャー』であった。現実はといえば、両方のケースがあるだろう。にもかかわらず、前者しかなかったのがそれまでの特撮ヒーロー番組である。そしてそれをくつがえしたことにこそ、『ゴレンジャー』の革命性があったのである。
 しかし以上のような制作意図があって、番組が作られていたなどとは信じられないと思う人もいるかもしれない。たかが子供番組を作るのに、そんなこと考えたりするのだろうか?
 その通りである。考えてはいなかった。たまたまそうなったのである。
 根拠のない話をしているのではない。先に、モモが痛めつけられる話として第16話と第40話を挙げたが、第16話でフラフラの体を引きずってモモが戦場に現れたとき、アカたちはモモにこんなことを言っているのである。
 「無理をしてはいかん!」
 自分たち4人では敵を倒すことはできないから、無理をおしてモモがベッドから這い出て戦場に来てくれたというのに、この言い方はないだろう。命尽きるまで戦うという使命を共に背負った仲間相手にする会話ではない。この時点ではどうも脚本家をはじめ制作スタッフの間でも、作品におけるモモの位置づけについて、考えをまとめることができていなかったのではないかという気がする。ちなみに第40話ではこのような会話はない。
 しかし『ゴレンジャー』における作中の最大の矛盾は、第55話におけるキレンジャーの交代であろう。現在では考えられないことであるが、当時は放映期間中に、他の仕事が忙しくなったからとかいう理由で主役級の役者が降板するのも珍しいことではなかった。ジャリ番なんぞ勤め上げたところで役者としてのキャリアアップにはならないし、このような降板劇もいたしかたないということではあるのだが、だったら戦死するとか重傷を負うとかいう話にすればいいものを、脚本はこれを単なる「人事異動」として済ましてしまったのである。
 当時はストーリーの整合性に今ほど神経質ではなかったとはいえ、これは作品の世界観に対する余りにも大きな変更ではないのか。第1話「真っ赤な太陽!無敵ゴレンジャー」によると、国際防衛機構「イーグル」が黒十字軍の奇襲を受け、かろうじて運良く生き残った者をかき集めてなんとか結成されたのがゴレンジャーだったはずである。実際5人のなかで文句なしに「頼もしい」と言いうるのはアカとアオくらいのもの、お調子者のキや若くて未熟なミドにまじる形であったからこそ、女でありながらモモが戦士として選ばれたのだった、この5人以外には適格者はいないということで。死にそうな目にあいながらも一歩も引かず、傷だらけになりながらペギー松山が必死に戦っていたのも、自分以外にモモレンジャーになれる人間はいないという思いからだったはずだ。それがいつのまにゴレンジャー予備隊員なんてものができたのか。ちなみに第55話を機に、戦士としての使命の描かれ方に変更が加えられるなどということもなかった。
 作中に矛盾が存在するのは、決して望ましいことではない。しかし、このように矛盾が存在するということこそ、この番組がスタッフの頭の中でこしらえられた後で制作に着手したものではないことの、何よりの証拠と言えるのである。陶芸には窯変という現象が存在するように、テレビ番組の制作の場においても、作り手の意図を超えた作品が偶然生まれることがある。そしてどんな天才をもってしても思いつかないような革命的なアイディアが現実にもたらされるのは、こういう時なのである。
 そう、当時にしてみれば、男と対等に戦う女戦士などというものを登場させるには、人知を超えた力でも働かない限り不可能だったのである。戦いは男の仕事であるという考えは、それほどまでに強く我々の常識の中に根を張っていたし、そしてそれを打ち破ったモモレンジャーという存在がどれほど革命的なキャラクターであったことか。実際それは大きな人気を博し、『ゴレンジャー』が大ヒット番組となったのも、モモレンジャーが大きく貢献したに違いなかった。
 しかしそれを窯変と、テレビのスタッフはただ喜んでばかりもいられなかった。作品の成功について緻密な分析を行ない、今度は偶然に頼らないで二回目の成功作を作らなければならない。しかしそれがうまくいくとは限らない。そこでまた窯変が起こる可能性かあるからである。
 二代目キレンジャーが登場したとき、視聴者として戸惑いが全くなかったわけではない。
 モモの戦いぶりは、「女は戦いに向いていない」という考えそのものを否定するものではなかった。ゴレンジャーの構成も、できることなら5人全員男であるのが望ましく、彼女は仕方なく選ばれた戦士だったのである。ところが第55話以降は事情は一変する。ゴレンジャー予備隊員の中には当然男がたくさんおり、彼らは当然ペギーよりも体力の面でまさっていたであろう。にもかかわらずペギーが戦士を続けることになったということは、彼女はそれらの予備隊員よりも優秀な戦士であると判断されたということになる。
 このような重大な変更を、プロデューサーや脚本家も見過ごしてしまったということは、つまりそれがこの時点では、大して違和感を感じさせるようなものではなくなっていたということであろう。仕方なく選ばれた戦士から、望まれて選ばれた戦士へ。そしてそれが戦隊ヒロインの新しい流れを形成していく。
 二回目の窯変はすでに始まっていた。