第四章 あるはずもなかった女性枠

(最終更新 2008.4.17)

戦隊ヒロインの黎明期  「ペギー松山」とは変な名前だなあと感じた人も多いのではないだろうか。
 ゴレンジャーの5人の戦士の名前には、それぞれの最初の1文字をつなげると「かしおぺあ」になるという仕掛けがほどこされている。しかし「ぺ」なんて普通の日本人の名前としては最初に来る文字ではないので、だからこのような苦しまぎれの名前になってしまったのだろうと考える人もいるかもしれない。しかし理由はそれだけではない。
 この稿で何度も触れてきたことであるが、女が男と同等の戦闘能力を持つことができない、その最も根底にあるのは体格・筋力の性差である。では女だけ外国人であるとか、あるいは外国人の血が入っているということにすればこの障害は緩和されるのではないか、という発想に行き着くのは至極当然のなりゆきであった。もちろん性差のほうが人種差より大きいから、完全に除去されるわけではないが、か弱き女戦士というイメージは大きく減じられるはずである。この路線は3作にわたって引き継がれ、そして消滅する。(厳密に言えば第4作目も戦士の選考に血筋が関係していないわけではないのだが。)
 もっとも、ペギーにしたところで、その設定が話作りに生かされたとはとてもいえなかった。理由はもちろん「顔」である。エキゾチックな雰囲気とはほど遠い、どう見ても日本人顔の女性を「日本人とスイス人のハーフ」などと言われても、視聴者としては戸惑う以外にどうしようもなかった。小牧りさ氏の太ももとハイキックに平山亨プロデューサーが惚れ込んでしまってキャスティングが決まったというのは有名な話だが、氏は顔のことはすっかり忘れてしまっていたのであろう。
 にもかかわらず、ペギーは2年間にわたって黒十字軍との死闘を続け、戦士としての使命を見事に全うしえた。こんな設定なんかなくても、女でありながら男と同等の使命を背負って戦士として戦うことが十分可能であるということを示すことができたのである。じゃあ、こんな設定なんか捨ててしまおう、という話にはなったかというと、そうではなく、今度はちゃんとハーフの役者を起用し、その設定を生かしてストーリーを作れば、さらに魅力的なキャラクターになるはずだと考え、そして生まれたのが後番組の『ジャッカー電撃隊』(1977年)のハートクイン、カレン水木である。そして実際彼女は作り手の思惑通りに、男に劣らぬ戦闘能力を持ったヒロインとして視聴者の前に現れたのであった。
 だが、この路線は続かなかった。
 別にカレン水木が不評だったわけではない。(好評だったわけでもないが。)そもそも、続くようなものでないことは、始めから分かっていたはずだ。カレンがそのような「強いヒロイン」たりえたのは、『ジャッカー』の制作が始まったまさに同じ時期、ジャパン・アクション・クラブ(現ジャパンアクションエンタープライズ)でミッチー・ラブという女優が頭角を現わしていたという偶然があってのことであった。アクション俳優養成を専門とする事務所に所属していただけのことはあって、実際ジャッカーの4人の戦士の中で最もアクションがうまかったのは彼女である。そこまでいかずとも、いかに強そうな顔をした女優を起用しようが、モタモタしたアクションをやっていれば台無しになる。アクションができる女優であることと、ハーフとしての彫りの深い顔立ち。一つだけでも希少なのに、この二つの条件を両方とも満たし、さらにその上演技力だのといった役者としての魅力まで求められる、そんな女優がそうそう見つかるわけがない。
 ハーフという設定は2代で終わり、では次は日本人かというとそうではなく、『バトルフィーバーJ』(1979年)では今度は正真正銘のアメリカ人が登場することになった。バトルフィーバー隊は国防省の倉間鉄山将軍の部下4人によって結成されたものだが、いよいよ秘密結社エゴスとの戦いの火蓋が切って落とされるその時、来日していたFBI捜査官ダイアン・マーチンがその隊列に加えられることになった。彼女はアメリカですでにエゴスと戦っており、また世界各国語ペラペラであるという。その経験と頭脳を生かし、バトルフィーバー隊において参謀として活躍してくれるのではないかと期待した視聴者も多かったことであろう。その期待は早々に裏切られることになった。問題はやはり役者である。ダイアン・マーチンを演じたダイアン・マーチン氏(役名と同じ)は、女優ですらなかった。本業はモデルである。背だけは高かったが、演技力もアクションも、議論する以前のレベルであった。劇中設定とは正反対に、日本語も堪能ではなく、変身後のミスアメリカを演じた小牧リサ氏が声もあてた。エゴスが引き起こしたと思われる怪事件の調査に男4人が乗り出すなか、ダイアンだけ基地で控えている、などという場面も多く、今見ても「そこまでして日本人女性を出したくなかったの !?」と言いたくなるような出来である。
 このような事態が生じたのも、この番組がスーパー戦隊シリーズの第3作として作られたものでなかったからである。戦士全員が対等・同格であり、全員が統一された形式を持っているというのが『ゴレンジャー』からの流れである。彼女だけ出身が異なっているという時点ですでにこの原則に反しているのだが、その上男の隊員が全員「バトル○○」という名前であるにもかかわらず、女だけ「バトルアメリカ」ではなく「ミスアメリカ」。また強化スーツもアメリカだけ太ももをむき出しにしたハイレグカット。確かにモモレンジャーには耳飾り、ハートクインには腰にスカート状の布というふうに、女だけデザインが少し変わるのは今までもあったが、このハイレグは度が過ぎている。
 『バトルフィーバー』はそもそもスーパー戦隊シリーズの作品なのだろうか。『ゴレンジャー』が大ヒットしたものの、その放映終了後、これぞ戦隊シリーズのスタイルだ、という明確な方針も示せぬまま試行錯誤の期間が数年続く。その期間に作られた本作は、スーパー戦隊の前史として扱われるべき作品なのだろうか。そういう考えもある。ミスアメリカだけ他の4人との差別化が図られているのも、「4人の戦士と1人のマスコットヒロイン」という構成にしようかという迷いがなかったわけではないだろう。にもかかわらず、完成された映像では、ミスアメリカはれっきとした男と対等のヒロインとなっていた。なぜそうなったか。合同必殺技「ペンタフォース」があったからである。
 前章で述べたことは、女が男に比べて体格や筋力で劣っていることは、女戦士にとっての絶対的な障害にはならない、ということであった。5人で戦うのである。5人の戦闘能力を合計した値が敵を上回ってさえいればそれでいいのであり、女が男並みの戦闘能力を持つ必要などない。足りない部分は仲間で補いあうのがチームワークというものである。そんなことよりもむしろ大切なのは、精神力のほうである。5人全員がそろわなければ敵を倒すことはできないという設定がある以上、もう戦うのはイヤになったからといって、戦士をやめることは絶対に許されない。もちろん、戦士の交代はありうる。しかしそれでも後任が見つかり、引継ぎの事務を完了するまでは、どんなにつらく、どんなに苦しくても辞めたいなどと口にしてはならない。体力は男並みである必要はない。しかし精神力は男と同等でなくてはならない。
 女が戦士に向かないのは、肉体的に向かないばかりではない、精神的にも向かないからであると第2章で述べた。しかしそれだって鍛えなおせばいいのである。正義だとか平和だとか、大切なものを守るために戦わねばならないとき、自分の命など犠牲にするのは当然である、などという教育を普通女が受けていることはない。ペギー松山も、イーグルの隊員になったのは自分の意志ではあっただろうが、まさかゴレンジャーの隊員となり、命尽きるまで戦うという使命を負わされることになるなどとは、まったく予想もしていなかったことであろう。しかし、なってしまった。である以上、「私は女だから」などと甘えたことは許されない。黒十字軍との戦いの連続で、彼女の精神はまたたくまに戦士として鍛えられたとしても何の不思議もないであろう。
 泳げない人間を、足が地面につかない深い水のところにいきなり放り込んで鍛えるという水泳の指導法がある。普通そういうのは、生徒が本当に溺れそうになればコーチは助けるものであるが、助けないとしたらどうだろうか。今まで水泳の練習を一度もしたことがない人間でも、そんなスパルタ式指導法を受ければ結果はどうなるか、目に見えているであろう。溺れ死ぬか、メキメキと上達するか。二つに一つである。それでも、幼少のころから水に親しんできた人間よりうまく泳げるようになるという保証もないのだけれども。
 だから、第55話でゴレンジャー予備隊の存在が明らかになったとき、彼女が引き続きゴレンジャーの隊員であり続けたのも、納得のいくことであった。「実戦で鍛えられた経験」は何事にも変えがたい貴重なものである。彼女はそれをすでに身につけた。もちろん、仲間のアカ・アオ・ミドと比べて遜色ないというわけでは決してなかったが、少なくとも何度も死線を潜り抜けてきた経験は、予備隊員を昇格させるよりはましと思わせるだけのものではあった。
 ミスアメリカに話を戻すと、彼女は強化服のデザインだけはタックルやベルスターの系譜に連なる「男の付録」とでもいうべきものでありながら、戦士としての立場は男と対等であるという、ねじれが生じることになった。そのおかげで、トランポリンを使った難度の高いアクションをする場面だけ、パンストの色が妙に濃いなどという妙な事態を生じさせることにもなったのであるが。
 変身前のダイアンも、活躍の場面はほとんどなかったが、第24話「涙!ダイアン倒る」だけは彼女の見せ場があった。エゴスにつかまり拷問に耐えるシーンのことである。『バトルフィーバー』はコサックとアメリカ、2人も戦士の交代があった作品である。第33話「コサック愛に死す」で初代コサックが戦死を遂げ、2代目によってその遺志が引き継がれるシーンが実に感動的であったことを思えば、アメリカも第24話で死ぬなり回復不能の重傷を負うなりというストーリーにして話を盛り上げればよかったのではないかという気がしなくもない。そうしなかったのは多分、男と女とではやはり差をつけなければという意識が作り手の側にあったようにも思われる。それでも戦士としては十分合格点なわけであったのだが。ちなみに彼女が戦列を離れた理由は、エゴスに正体を知られてしまったためということになっているが、バトルフィーバー隊の連中はみんなエゴスの前で変身していたりしたはずである。(まあ説明をつけようという試みがあっただけ、キレンジャーの交代劇よりマシだったかもしれない。)
 しかし、ダイアンの戦いに感動するのはいいとして、そういうことを言うのであれば、別に女戦士は外国人でなくてもいいのではないか?
 回答は二代目ミスアメリカ、汀マリアによって示された。演ずるは萩奈穂美氏、普通の日本人ある。マリアは国籍はアメリカ(第36話による)、ダイアンと同じくFBIの捜査官であり、アメリカでエゴスとの戦いの経験を積んできたという設定である。しかし別に会話の場面でオーバーアクションをひけらかすなどということもなく、アメリカで生まれ育ったという雰囲気も特に感じさせることはなかった。後ろで縛った髪型も異国的な雰囲気を感じさせないこともなかったが、第43話ではそれも変えた。マリアに交代してから、アメリカの出番は一挙に増える。強くて頼もしかったというわけではない。そのほとんどは「やられ役」としてのものであった。しかし、けなげにエゴスの犯罪を追い、どんなピンチにあっても屈せず必死に戦いつづける彼女を見て、今まで固執しつづけてきた「外国人」などという設定がまったく意味のないものであったことに、作っているほうも見ているほうも、ようやく思い知らされたのではなかったか。
 『バトルフィーバー』の成功を受けて、その後番組として書かれた企画書のタイトルは『電子マン・トリッガー』。登場するのは、地球人の男4人と宇宙人の女1人で構成された戦隊であり、女だけ宇宙人ならではの超能力を持っているという設定である。血筋路線が行き着くところまで行き着けばこうなるだろうという感じはする。だが、企画をつめていくうちに、スタッフはこの作品によって戦隊シリーズを軌道に乗せることができるという手ごたえをようやくつかむことができたのではないか、その作品が、『ゴレンジャー』以降久しぶりに番組名に「戦隊」の文字をつけて『電子戦隊デンジマン』(1980年)というタイトルを最終的にいただくことになったのも、その自信の現われだったのだろう。(*1)
 そうである以上、そのヒロインであるデンジピンクは、もはや女だからといってほかの仲間の男とは異なる特別な出自を持つなどということはありえなかった。
 『ジャッカー』の頃はまだ「シリーズ化しよう」という明瞭な意図が存在していたわけではない。とりあえず『ゴレンジャー』が大ヒットしたから、似たようなのを後番組として作っただけである。(ちなみに企画段階での名前は『電撃戦隊グロスボンガー』と、「戦隊」の文字がつけられていた。)だがシリーズとして軌道に乗り、一年に一作のペースで作品が作られるようになったとする。5人の戦士のなかに1人だけ女性がいて、男はいつも日本人、女だけ外国人か外国人のハーフ、こういうのが毎年毎年続いたら、いくらなんでも変すぎる。1回か2回なら、偶然で済まされよう。しかし戦隊シリーズを軌道に乗せるためには、これはきれいさっぱり捨てる以外に選択肢はなかった。
 それにしても、アニメのほうでは1976年の『超電磁ロボ コン・バトラーV』で南原ちずるというキャラクターを早々に生み出したのに比べると、なんという遅さであろうか。
 アニメについて少し触れておくと、集団ヒーロー物の金字塔であり、戦隊シリーズにも影響を与えたと言われる『科学忍者隊ガッチャマン』(1972年)においても、やはりヒロインの白鳥のジュンが日米のハーフという設定であった。理由は戦隊と同じである。もっともこのアニメは全員が濃くて彫りの深い顔をしていたから、ペギーとは逆の方向で意味のない設定になってしまったのであるが。しかし『ガッチャマン』は一世を風靡した大人気作品にはなったものの、アニメにおける「集団ヒーローもの」の潮流を作る作品とはなりえなかった。作ったのは、『ゲッターロボ』(1974年)に始まる合体ロボットものである。どんなに視聴率が高くて人気の高い番組でも、関連商品の売り上げが悪ければ打ち切りになる世界である。そのためにはメカやロボを確実にたくさん出せるようなストーリーを持っていることは断然有利になる。複数のメカが合体して巨大ロボになるという設定は、まさにうってつけのものであった。
 3機や5機のメカが合体し、1つの巨大ロボになるという設定は、つまり3人だか5人だかの操縦者のうち、1人でも欠ければ戦うことはできなくなるという制限をもたらす。これは戦隊シリーズでいうところの「合同必殺技」と同じである。『ゲッターロボ』の3機のメカの操縦者は全員男であったが、ではこのうち1人を女にすれば、可憐で非力な女の子でも男と同じ重さの使命を負って戦う戦士にすることができるはず。しかしその発想に辿り着いたのは、『ゴレンジャー』よりも1年遅かった。そして『コン・バトラーV』で南原ちずるが歯を食いしばってバトルマリン専属操縦者として戦うのをファンはハラハラしながら見守ることになった。それは、たとえば『マジンガーZ』(1972年)で弓さやかがいくら活躍しようが決して達することのできない境地であった。南原ちずるが大きな人気を呼ぶヒロインに成りえたのは、別にシャワーシーンやパンチラのおかげではない。(もちろんそれもあっただろうが。)
 そしてそれ以降「5人モノ」におけるアニメヒロインは、白鳥のジュンが持っていた外国人の血などという設定を、もはや顧みる事すらなかった。
 それに比べて、特撮のほうでは桃井あきら・デンジピンクというキャラを生み出すまで、随分と遠回りしたものだと思う。
 確認しておきたいのは、戦隊ヒロインは別に「名誉男性」になりたかったわけではないということである。女である以上、男より非力であり戦闘能力において劣るのは当然のことである。たとえ非力ではあっても、男と同等の責任を負い、同じ使命を背負って戦うこと、それに耐えうるだけの精神力を持つこと。それこそが戦隊ヒロインが追求してきたことである。別に男並みの戦闘能力を持ちたいと思ったわけではないし、男との戦闘能力の差が縮まれば、男との立場の差が縮まるわけでもない。その二つは全然関係のないことである。そもそも作り手のほうも受け手のほうも、「男に劣らぬ戦闘能力を持った女戦士」を本気で見たいと思っていたわけではないのだろう。もし本気で思っていたら、女子プロレスラー上がりの、筋肉モリモリのゴツイ大女をなぜ出さなかったのか。ヒロインを、それこそ『G. I. ジェーン』のオニール大尉のように、頭を丸坊主にするようなガッツの持ち主になぜしなかったのか。(*2)
 そこまでする気はなかったのだろう。だったら、男との戦闘能力との差を縮めようなどという試みは、さっさと放棄すべきであったのである。それをぐずぐずと迷った結果が、三代にわたるハーフ・外国人という設定であった。
 そして、ペギー松山にはそれに類する設定がもう一つあった。工学の専門家という顔である。
 ゴレンジャーの基地で、ドライバーを片手にゴレンジャーの武器を分解して改良作業にいそしむペギーのシーンが画面に映し出されることがよくあった。(第53話「赤いホームラン王!必殺の背番号1」など。)戦闘能力の低さを、頭脳労働での貢献で補わせようという作り手の側の狙いは明白であった。しかし、だからペギーが仲間にいてくれてよかった、ペギーは頼もしい、という印象が視聴者に残るかというと、実はそうでもなかったりする。そもそもそれは戦士の仕事ではない。イーグル日本支部は大組織なのであって、当然武器やメカの開発や整備に大勢の技術者が日々いそしんでいるのであり、そういう人たちがやればいいのである。別にペギーがやらなければならないことではない。
 こういった頭脳労働担当の戦士を1名擁する戦隊は多い。そしてそういう役目は、女にあてがわれることが多い。だが、こういう設定というのは意外に視聴者の印象に対して残らなかったりするのである。あくまで戦士としての頼もしさを、視聴者は第一に期待して見ているのであって、余技はあくまでも余技である。頭脳労働担当の戦士が重宝されるような戦隊があるとしたら、それはバックに組織を何も持たず、武器の整備や開発も全部自分たちでやりながら地球の平和を守るために戦う戦隊ということになろうが、それはそれでリアリティのなさを批判されないわけにはいかない。
 5人の戦士のうち、働きの悪いのが1人だけいる、という構図を作るのがよっぽどいやだったのであろう。戦闘能力が低い代わりに、何か他の男にはない技能や経験を女だけが持っているということにすれば、貢献度の差が縮まるはずと考え、そしてペギー以降も、『ジャッカー』ではカレンだけが刑事、『バトルフィーバー』ではダイアンとマリアがFBI捜査官。経験値の低い男たちと一人だけ経験値の高い女、という組み合わせである。しかしこれはこれで不自然さを感じさせないわけにはいかない。経験値の高い女を入れるくらいなら、経験値の高い男をなぜ入れないのか。この両作品とも、どういう基準で戦士が選抜されたのか、あいまいにしているという面がある。女だけが持っていることにして不自然にならない技能はというと、手先の器用さであるとか、女ならではの勘の鋭さとか、変装がうまいとか、よく気がつくとか……。こういうのを話作りに生かそうという試みは、これ以降もずっと続くのであるが、結局瑣末なものにしかならないし、大した効果も残さず終わるのが常であった。だいたい女のほうが男よりも手先が器用だとかいうのに科学的根拠があるとも思えない。
 働きの悪いのが1人いても、別にいいではないか!? 戦士にとって一番重要な能力は戦闘能力であって、それ以外のところで女だけにごちゃごちゃ技能を付与したところで、そんなものは事の本質から目を背けさせようということにしかならない。そんなものは要らない。桃井あきらが戦隊ヒロインのスタンダード像を示そうという試みのもとに作られた最初のヒロインであったのは、そういう意味においてであった。テニスプレイヤーとしての、鍛え上げられた丈夫な肉体を持っているという以外に何も持っていない女性。特別な血筋ゆえの能力だとか、他の4人にはない特技や経験があるとか、そういう設定を一切持たない女戦士の誕生した瞬間であった。
 だが、その結果として、あきらはペギーが持っていた、もう1つの面もまたあからさまに受け継ぐことにもなった。すなわち、「仕方なく選ばれた戦士」という面を。
 それは第2話「人喰いシャボン玉」で早々に示されることになる。
 第1話でデンジ犬アイシーによって5人の戦士が選ばれる。理由についてはよく分からないが、とにかくこの5人以外であってはならないということで話は進む。4人はすんなりと地球を守るために戦う戦士としての使命を受諾するが、あきらだけは拒否する。理由はというと、テニスプレイヤー世界一の夢があきらめきれないからだという。
 こわいからだとか、体力に自信がないからとか、あるいは犬の言うことなんかにすんなりと従えないと言い張るとかいうのであれば、まだ分かる。それどころか、戦士になるにあたっての葛藤や逡巡が描かれることが、作品のドラマ性に厚みをもたらすという効果を期待することさえできる。しかし、なんでテニスなのだろう? 宇宙からの侵略者によって、地球が滅亡の危機に瀕しているという時に、テニスどころじゃないだろう !? だが他の4人も彼女を説得しあぐね、彼女自身の身にベーダー一族の魔の手が及ぶにおよんでやっと戦うことの決心をする。正義と平和を守るためであれば、自分の命を犠牲にして戦うなどということは当然であると考える男と、そうでない女の差をまざまざと見せつけるエピソードではあった。
 しかし、見ているほうとしても不安いっぱいの番組スタートであった。なんでこんなやつに地球の平和を守るための戦いを託さなければならないのだろう。頼りないことおびただしい。しかし、選びたくて選んだわけではないのだ。話が進むにつれて、彼らが戦士に選ばれた理由が徐々に明らかになっていく。かつて3千年前にベーダー一族に滅ぼされたデンジ星という星があった。しかし住民の中には難を逃れて地球に移り住んだものがいた。今やベーダー一族は地球に狙いを定める。3千年の間にデンジ星人たちは地球人と交わり、遺伝子も希釈され、デンジ星人としての能力もやがて失われていったが、それでも能力を保っていたものがわずか数人残っていた。彼らはアイシーによって発見され、デンジマンに選ばれる。作中で断定はされたわけではないが、そのようなものとして話は進む。
 デンジ星人の血を引いているからといって、たとえば普段から100メートルを5秒で走れるとか、そういう目に見えるところで特殊な能力を発揮できるというわけではない。デンジスパークができて、デンジマンに変身して戦えるというだけである。桃井あきらは、血筋によって任命された戦士には違いなかったが、戦士になれるという以外においては全く普通の人間である。女だからといって何かそのハンデを補うための特殊な出自の設定を持たされることがなかったという意味において、戦隊史上初の「普通の女性」のヒロインとなった。
 初期の戦隊ヒロインの中でも、あきらの頼りなさは抜きんでていた。ペギーやマリアも、文句なしに「頼もしい」というわけではなかったが、任務に対する真剣さという点では仲間の男にひけをとらなかった。しかしあきらの場合は、戦士としての自覚を欠いた軽率な行動が目立つのである。第12話「危険な子供スパイ」で、任務の最中にきれいなバラに見とれて敵の罠に落ちるなどというのは、それまでのヒロインでは考えられないことである。それは、軍隊や警察のような、身を危険にさらすような職業についた経験を持っていない、普通の女の子が戦士に任命されるということがどういうことなのかを、視聴者に見せつけるものであった。
 もちろんこれは序盤で特に目立つものであって、彼女も戦いを通じて成長はしていく。だが、鍛えて初めて使い物になる者と、鍛えなくても使い物になる者とがいて、どちらかを戦士に選べと言われれば、どちらをとるのかは言うまでもあるまい。
 戦隊ヒロインの登場は、「女などいくら鍛えたところで使い物にならない」という、それまでの常識に対する反論であった。だからといって、女であることに肯定的な意味合いを見出したわけではない。戦士にとって、女であることはマイナスの意味しか持たない。そのマイナスは、決定的なマイナスではない、ということを示したに過ぎない。マイナスであることには変わりはないのである。
 そしてそうやって確立された戦隊ヒロインのスタンダード、その限界は、次作の『太陽戦隊サンバルカン』(1981年)によって明らかされた。シリーズ史上初の、女なしの戦隊である。
 2008年現在、女戦士のいない戦隊はそれ以降出ていない。そのため、現代の我々は戦隊というのは女戦士は少なくとも一人はいなければならないものであって、『サンバルカン』に女戦士がいないのは初期戦隊シリーズの試行錯誤であり無駄に終わった試みであるとついつい決め付けてしまいがちである。しかし話はそれほど単純ではない。
 戦隊シリーズが軌道に乗るまでの時期、「今までとは違うことをやってやろう」という意欲はどの作品からも強く感じられるものであるが、その攻めの姿勢は軌道に乗った後も続く。『サンバルカン』もまた二つの点において革新的な試みをなした作品であった。一つは一年間を通じて3人だけで戦い抜いたこと。人数を減らせば、一人一人の個性を一層じっくりと描くことができるだろうという計算があったのであろうが、その分、一人当たりの戦闘能力をこれまでになく高くする必要ができた。国連所属の地球平和守備隊から選りすぐった3人の精鋭軍人によって太陽戦隊が結成されるという設定は、この要請に応えたものである。これが『サンバルカン』の革新性のもう一つであり、素人によって結成された前作の電子戦隊の正反対をいくものである。つまり『デンジマン』と『サンバルカン』の二作品は、戦隊の両極端像を示そうとしたものであった。
 『サンバルカン』でも戦士の交代はあった。バルイーグルの交代は、なんらドラマチックなことのない、単なる人事異動である。しかしこれはかえって『サンバルカン』の世界観に合致するものであった。何か特殊な血筋を持っているとか神秘的な能力を持っていたがゆえに戦士に選ばれたのではない、軍人として優秀であったから選ばれたのである。そうである以上、もっと優秀なやつが現れれば、交代するのが当然ということになる。太陽戦隊は地球平和守備隊の一部署にしかすぎない。
 そういう世界設定であれば、これがシリーズ史上初めて女戦士不在の戦隊であったのも理解できるであろう。『デンジマン』において示された戦隊ヒロインのスタンダードは、「本当は好ましくないのだけれども、他に選択肢がないから仕方なく選ばれた戦士」である。その考えをそのまま引き継いだだけである。精鋭を選りすぐって結成された戦隊には、女戦士の出る幕などないのである。
 『ゴレンジャー』はさまざまな面において革命的な番組ではあったが、「男と対等に戦う女戦士」の存在もまたその一つであった。そしてモモレンジャーの活躍に胸を躍らせた視聴者は、『ゴレンジャー』がシリーズ化され、女戦士が活躍する番組がこれからもずっと作られれば、それはどんなに素晴らしいことであるかと想像したことであろう。だがシリーズが軌道に乗るためには、女戦士の作中での位置づけについて、きちんと考えを詰める必要があった。『ジャッカー』と『バトルフィーバー』が、そのへんをあいまいなままやり過ごしていたことについては前述した。結論を出したのは『デンジマン』と『サンバルカン』である。
 今後も戦隊シリーズを作り続けていくとして、それは、『デンジマン』型の「この5人を選ぶほかに選択肢はなかった」という戦隊、『サンバルカン』型の選りすぐりによって結成された戦隊、この二つのうちどちらかのタイプになるであろう。そして、前者のタイプのときにしか女戦士は出せない、ということが示されたのであった。毎年は出せるわけではありませんよ、と。
 『サンバルカン』に女がいなかったのは、3人戦隊であるということも大きかったであろう。女の戦闘能力は低い、しかし5人で力を合わせて戦うのであれば、非力なのが1人くらいいたって大丈夫だろう。4人ではどうか? それもまた許容範囲と言えそうである。しかし3人ともなれば話は全く違ってくる。ただ、それもやはり本質的な問題ではなかったような気はする。かりに精鋭軍人5人を選りすぐって結成された戦隊であっても、やはり女が入ることはなかったであろう。5人戦隊で5人とも男だなんて馬鹿げている、と思ったとしたら、それは現代の感覚を過去にあてはめるという愚をおかしているのである。現に東映の鈴木武幸プロデューサーは、戦隊シリーズの初期のころはヒロイン不要論、つまり5人とも男にすべしという意見も根強く存在していたことを、インタビューを受けるたびに口にしている。(*3) マンガやアニメでは全員男というのも少なくない。特撮だけ例外であるべしなどという理屈もない。だいたい女児向けアニメでは、『美少女戦士セーラームーン』(1992年)にしろ『Yes! プリキュア5』(2007年)にしろ、5人主人公がいれば5人とも女であるのが当たり前ではないか。
 『サンバルカン』の女戦士不在も、別にこの時期戦隊シリーズのスタッフが男性中心主義に転向したからとかいう理由があったわけではない。当時『サンバルカン』にがっかりしたという視聴者も多かったと思われるが、これはこれで仕方がないことだと納得したのではないだろうか。
 4作連続して女戦士が存在したのは、別に女性枠というものがあって女には優先的に1名の割り当てがあったからではない。そもそもこれは戦争なのである。各作品には世界観の設定があり、「こういう条件の下で戦士を選ばなければならない」という制約がある。そしてその制約の中でベスト・メンバーを選んだら、女を1名含む構成になるという結果がたまたま続いた、そして5作目にして途切れた、それだけの話である。
 いや、そういう言い方は正確ではない。女1名という結論が先にあり、そしてそこから逆算して各作品の世界観が作られたというのが真相だろう。そのために『ジャッカー』『バトルフィーバー』は戦士の選抜方法に若干の不自然さを残してしまった。そしてその不自然さを払拭するよりも、女戦士を見たいという欲求のほうが上回っていた。であるがゆえに、この2作品の設定は作られたのだった。
 だから、疑問に思うべきなのは「なぜ『サンバルカン』に女戦士がいなかったのか」ではない。「なぜ女戦士がいる戦隊が4作品も続いたのか」である。なぜ我々はそこまでして女戦士を見たがったのだろうか?
 そして、戦士の任命が選択の余地のない設定の作品に限って女戦士は出せるという原則は、次からの作品に果たして引き継がれたのであろうか?
 スーパー戦隊シリーズ第6作『大戦隊ゴーグルファイブ』、5人戦隊の復活である。
(この章終わり)