悪は人の心の中に 正義も人の心の中に

―― 『大戦隊ゴーグルファイブ』と冷戦

(最終更新 2007.1.30)

 「いまや地球はいつ滅びても不思議ではない」
 第2話における本郷博士のセリフである。だがこれは物語の中の話というだけではなかった。冷戦時代のことなど忘れてしまったという人も多いであろうが、これが放映された1982年、本当に人々はそう感じながら生きていたのである。
 今から当時を振り返れば、「あんなのは杞憂であった」といくらでも言えるであろう。しかし世界を二分する東西両陣営の対立が激しさを増す中、たった一度の過ちが起これば、それが世界終末戦争になることは誰の目にも明らかであったし、今こうやって人類が生存しているのは、半世紀もの間、そのたった一度の過ちが幸運にも起こらなかったということでしかない。
 当時人類が所有していた核兵器は、人類を滅亡させるに足る量を軽く上回っていた。(十倍以上とも言われている。)
 人類の文明の歴史は、兵器の発達の歴史でもあった。科学が発達すればするほど、より高度な、より破壊力の大きい兵器が開発され、文明を破壊する力も増大してきた。そして今や、人類は人類自身を地球上から永久に抹殺できるだけの破壊力を手に入れた。
 こんな異常な状態がいつまで続くのか、どうやったら終わらせられるのか、誰にも分からなかった。別に何ものかが「人類を絶滅させてやろう」などと考えてこういう状態になっているわけではない。もしそうなら、そいつをやっつければ済む話だ。だが、どこの国も、自分の国を守るためには敵対国よりも少しだけ軍事的に優位に立てればよいと考えただけではなかったか。そして相手国もまた同じように考え、そしてそれが積もり積もって行き着いた先が、人類絶滅の危機を目の前にしてなおやまぬ、歯止めのない軍拡競争だったのではないか。
 人類を滅亡の淵にまで追いつめていたのは、他ならぬ人類自身であった。

 ここで一つ問題を。『大戦隊ゴーグルファイブ』の主人公は誰でしょう?
 そりゃ、ゴーグルファイブの5人じゃないの、と思った人。それは『ドラえもん』の主人公がドラえもんだと言うようなものである。誰の視点から物語が語られているかを考えながら虚心に見れば、答えは自ずと明らか。正解は「一般人」である。
 『ゴーグルファイブ』は未来科学と暗黒科学の戦いを描いた作品ということになっている。しかしよく見ると、両者は実は同じものであるということに容易に気づくはずだ。恐ろしい兵器を作り、人類に災厄をもたらす目的で使用されればそれが暗黒科学であり、それを防ぐ目的で使用されればそれが未来科学である。
 どちらも人間が作ったものである。
 この世に正義や悪などというものが、単体で存在するわけではない。存在するとしたら、それは人間の心の中である。我々人間の弱い心は常に悪の誘いを受け、引っ張られようとしている。実際、『ゴーグルファイブ』においてデスダークに目を付けられた一般人は、脅迫や甘言によって簡単に言いなりにさせられ、悪の手先として利用されるのを拒むことはほぼ不可能ときている。脅され、「自分たちだけでも助かりたい」という一心で大量殺戮兵器の設計図をデスダークに渡す科学者を責められようか。
 だが、もしそれに対抗して、我々の心を正義の方向へと引っ張ってくれる存在がいてくれれば……。
 それがゴーグルファイブなのである。
 ゴーグルファイブとは我々が心の中に抱いている、正義の概念を擬人化したものと言っていい。5人の戦士は全員、勇敢で、意志が強く、正義感に燃え、我が身を省みず弱きを助けるやさしい心の持ち主ばかりである。我々一般人は決してゴーグルファイブにはなれない。だが、協力はできる。悪の誘惑をはねのけ、ゴーグルファイブに協力を申し出、勝利にわずかな貢献をすることもある。そして彼らを見習い、自分たちも正しい心を持たねばと思うのである。
 ゴーグルファイブに選ばれた5人は、いずれも戦闘に関して素人であり、またなんら特殊な能力も持っているわけではない。彼らに必要なのは平和を愛する正しい心を持っていることであり、それさえ持っていれば他には何も要らなかったのだから。もちろん5人は一応人間ではある。くじけそうになったり、たまには休みたいと思うことがないわけではない。だが最後までそれに屈することはなかった。「正義とは、こういうものであってほしい」と我々が心に願う理想そのままの姿をゴーグルファイブの5人は最後まで演じきり、そのことによってこの作品は成功したのである。
 たかが子供番組から何を深読みしているんだと思われるかもしれない。だがこれは子供番組用にあつらえられた夢には違いなかったが、当時の大人たちにとっても夢であったのである。現に今、人の心の中にある悪が積もり積もったものが、人類を滅ぼそうとしているではないか。悪が人の心の中にあるものであれば、それに対抗できる正義もまた人の心の中にあるのではないか。そして正しい心を持つことが、いずれの日か人々を核戦争の恐怖から解放し、戦争のない、すばらしい未来を我々は手にすることができるのではないか、と。

 だが、すべての人がこの作品の成功を歓迎したわけではなかった。
 ヒーローというのは強さと弱さを併せ持った、視聴者と等身大の存在でなければならず、「自分はなぜ戦うのだろう」などと高尚な悩みにふけるような存在でなければならない、という考えが擡頭してきていたのである。
 1982年という年は、それまでもっぱら子供が見るものと相場が決まっていた特撮ヒーロー番組が、徐々に中高生にも視聴層を拡大しつつある時期であった。(彼らは後に「オタク」と呼ばれることになる。)作り手の側も、テレビ業界において「ジャリ番」などと蔑まれ一段低いもののように遇されてきたスタッフやキャストたちが、それに対する反発から「大人の鑑賞にも堪える作品を作りたい」という意欲を芽生えさせていた。
 人間ドラマを重視した作品にするためには、主人公は完璧であっては困るのである。
 結論を先に言えば、『ゴーグルファイブ』以降採用されたその新路線は視聴者から歓迎され、物語にバリエーションを増やすことにも成功した。だがそれは、『ゴーグルファイブ』では正義と悪のはざまで揺れる一般人の心の弱さ醜さを描いていたのが、後続の作品では正義と悪のはざまで揺れるヒーローの心の弱さ醜さを描くのに置き換わっただけである。別にそれで人間ドラマが深くなったわけでもなんでもない。
 それに、『ゴーグルファイブ』以降の数年間は、そんなに大した変化が訪れたわけではなかった。ヒーローたちは引き続き勇気があってやさしくて、多少人間くさくなった程度にとどまり、子供たちから見て頼もしいお兄さんお姉さんであることに変わりはなかった。いくら高尚なドラマが見たいからといって、番組のメインターゲットはあくまでも子供であり、自分たちはそのおこぼれにあずかる存在であるという自覚ぐらいは当時のオタクは持っていたし、作り手もまた同様であった。
 だが、時代が下り、今や一般人にとって代わって主人公の座を占めたヒーローたちの心理を精緻に描くことが「大人の鑑賞に堪えるドラマ」であるなどともてはやされていくに従って、その新路線は徐々に子供番組という枠との間で亀裂を目立たせるようになっていく。
 その亀裂とは何か。
 主人公たちが毎週毎週勝ち続けていられるのはなぜか、という問題である。
 主人公が人間としての強さも弱さも併せ持つことを「リアリティがある」などと賛美するのであれば、勝ったり負けたりしなければおかしいのではないか?
 自分たちの力が足りなかったために、罪のない人々が死んでしまうのを防げず辛い思いをするとか、正義とは何かと悩み結局納得できないまま事件が終わるとか、そういう話がほとんどを占めることにならなければならないのではないか?
 だが、結局そういうことにはならなかった。
 いくら悩んだり傷ついたりしてみたところで、どうせ最後には自分たちは勝つのだという、安全が保障された上での悩んだり傷ついたりである。
 『ゴーグルファイブ』における5人の戦士は、いわば理想化された存在なのであるから、毎週毎週勝ち続けても別に視聴者としておかしく感じるところはない。もっともそのためには彼らは完璧に正しい人間である必要があった。自分自身の幸福を犠牲にすることに何のためらいもなく、世界を救うという一大事を果たすためには、束の間の安らぎの時間を家族と持つことさえ望ましくないことだと考えていた。
 だが、「視聴者と等身大」であることを求められた普通の人間が、たった3〜5人で地球の運命を背負って戦うことを命令され、一度でも負ければ人類は滅亡だ、なんて言われたら、もうその時点でプレッシャーに押しつぶされない方がおかしいだろう。およそ死と隣り合わせという雰囲気とはほど遠い、悲壮な覚悟も持っていそうに見えない普通の善男善女が、恋だの進路だのに悩みながら青春し、それと地球の平和を守る戦いとを両立させ、さらに毎週毎週勝利してしまう、そんな話に説得力を持たせようと思ったら、一体どうすればいいか。
 それはもう、主人公たちの所有するテクノロジーを、より強力なものにするしかないであろう。
 高度な武器、マシン、ロボを次から次へと出すしかないのである。それはスポンサーであるオモチャ会社にとっても都合のいいことに違いなかった。
 強化スーツも、以前ならば人間の能力をある程度アップさせる程度のものだったのが、今や身につけさえすればどんな素人でも超人的な能力を発揮できる魔法のアイテムと化した。戦士たちは敵に遭遇すればすぐに変身してしまえばいい。もはやアクションのできる役者を苦労して探す必要もなくなった。
 ヒーローたちはもはや正しい心を持っているから勝つのではない。勇気も、強靱な意志も、正義感もそれほど大した問題ではない。彼らは敵に比べてより高度な科学力を所有しているから勝つのである。
 しかしもはやそれは単に、強いものと弱いものが戦えば、強いものが勝つ、そんな当たり前の話をしているだけにすぎないのではないか?
 作り手の側もその危険性に気づいていたと思われる節がある。変身不能におちいるとか、圧倒的に不利な戦力差を努力と根性で跳ね返すような話を時々思い出したように作ったりしていたのは、その証左であろう。普段は強化スーツに頼り切った戦いしかしたことがない連中が、いきなりそんな活躍をしたら視聴者がどういうふうに感じるか考えもせずに。
 どちら側が勝つかはあらかじめ決まっているという、勧善懲悪のフォーマットだけは維持しつつ、正義のヒーローは正義らしくなくなり、悪の組織もまた悪らしくなくなれば、「力がすべて」というメッセージしか残らなかったのは、当たり前ではないか。

 1989年、冷戦は終わった。
 核戦争の恐怖からの解放を、人々はどれほど望んでいたことか。だがそれは、予想していたのとは全く違うやり方でだった。別に平和を愛する人々の心が冷戦をストップさせたわけではない。単に、効率という点において市場主義経済が計画経済を圧倒したという、ただそれだけのことだった。
 今や世界に唯一つとなった超大国が、政治・経済・軍事あらゆる分野において他のすべての国を圧倒している。その覇権に対抗できるだけの力を持った勢力はもはや存在しなくなったし、これからも当分の間は現れそうにない。そしてそういう状況になることによって初めて、人類は絶滅の危機におびえなくて済むようになったのである。
 冷戦時代、人々は、平和を愛する正しい心をみなが持つようになれば、いつか戦争のない世界を我々は迎えることができるはずだ、そういう夢を抱いていた。もちろんそれは夢に過ぎないことは分かりきっていた。だけれども人類絶滅という恐怖に耐え、生き延びることができたのも、そういう夢を持っていたからこそである。
 だが、そのような夢は、もう今の世界には必要ないのかもしれない。
 しょせんこの世は力がすべてである、そういう考えを、誰もが受け入れ始めたように見える。
 唯一の超大国は、冷戦に勝利したことによって自信を深め、「世界の警察官」として以前にも増して世界中の紛争に介入しようとし、自らの価値観に逆らう国に対する圧迫を強め、それが新たな紛争の種を世界中にまきちらしていると批判する人もいる。
 だったら、逆らわなければいいのではないか。
 人類は今後も生きながらえるのだろう。世界中で適当に戦争を続けながら。そして毎年毎年大勢の人々が死んでゆくという状況は、これからもずっと変わらないのであろう。
 もはや我々は夢を見ることさえもできなくなったのかもしれない。

 だが、もし、それでも納得できないと感じるものがあるとしたら……。
 そういう人は、『大戦隊ゴーグルファイブ』を見て欲しい。
 初放映から実に24年7ヶ月ぶりにソフト化されたこの作品は、我々が正しい心を持ち、いつかは戦争のない世界を迎えることができる、そういう夢を見ることのできた時代へと、今なお我々をいざなってくれるであろうから。