スーパー戦隊シリーズの時代区分

(最終更新 2014.11.3)

第一期
(草創期)
1975秘密戦隊ゴレンジャー第五期
(安定期)
1996激走戦隊カーレンジャー
1977ジャッカー電撃隊1997電磁戦隊メガレンジャー
1979バトルフィーバーJ1998星獣戦隊ギンガマン
1980電子戦隊デンジマン1999救急戦隊ゴーゴーファイブ
1981太陽戦隊サンバルカン2000未来戦隊タイムレンジャー
第二期
(発展期)
1982大戦隊ゴーグルファイブ2001百獣戦隊ガオレンジャー
1983科学戦隊ダイナマン第六期
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2002忍風戦隊ハリケンジャー
1984超電子バイオマン2003爆竜戦隊アバレンジャー
1985電撃戦隊チェンジマン2004特捜戦隊デカレンジャー
1986超新星フラッシュマン2005魔法戦隊マジレンジャー
1987光戦隊マスクマン2006轟轟戦隊ボウケンジャー
1988超獣戦隊ライブマン2007獣拳戦隊ゲキレンジャー
1989高速戦隊ターボレンジャー2008炎神戦隊ゴーオンジャー
1990地球戦隊ファイブマン2009侍戦隊シンケンジャー
第三期
(激動期)
1991鳥人戦隊ジェットマン2010天装戦隊ゴセイジャー
2011海賊戦隊ゴーカイジャー
第四期
(収束期)
1992恐竜戦隊ジュウレンジャー2012特命戦隊ゴーバスターズ
1993五星戦隊ダイレンジャー2013獣電戦隊キョウリュウジャー
1994忍者戦隊カクレンジャー2014烈車戦隊トッキュウジャー
1995超力戦隊オーレンジャー 
 ウルトラシリーズや仮面ライダーシリーズには「昭和第二期」だの「平成三部作」だのといった呼び方がある。どうして特撮ヒーローは、やたらと元号を冠した呼称を使いたがるのだろうか。そして、なぜスーパー戦隊に限って、そのような呼称がないのだろうか。
 理由は簡単なことで、1990年代前半というのが、日本社会における激動期だったからである。1989年に冷戦が終わり、それは政治・経済等あらゆる分野において、日本社会に決定的な影響を与えた。だが、人々の意識に変化を及ぼすまでには少し時間がかかったのである。正義のヒーローに対して抱く人々のイメージもまた、この1990年代前半を境に大きく変化した。そして改元は1989年。時期が近いのである。ただし一致はしていない。
 昭和最終作平成第一作扱い不定
戦隊ライブマン(1988年)〜ターボレンジャー(1989年)
ライダーBLACK RX(1988年)クウガ(2000年)真、ZO、J
ウルトラ80(1980年)ティガ(1996年)G、パワード他多数
 ウルトラマンや仮面ライダーのシリーズは、テレビ放映には中断期間があるので、この断絶の時期を境に前か後かで分けるのと、放映開始時が昭和か平成かで分けるのとがきれいに一致する。そして戦隊シリーズは毎年テレビでやっているので、うまくいかないのである。
 しかしそれは偶然うまくいった結果に過ぎない。昭和作品と平成作品はどう違うのか、それぞれ時代の雰囲気をどのように反映しているのか、原理的な考察があったわけではない。だから、新旧世代が互いに相手を罵るためのレッテル貼りとして機能したりするのである。ついにはそれを商売に利用しようとする連中まで現れた。
 さてスーパー戦隊である。東映にとってもファンにとっても、時代区分がそれほど真剣に話題になることはない。しかし「今年の戦隊は昭和っぽいなあ」などという言葉を、若いファンが口にすることはある。昭和という時代に対して何も知らず、ただ単に自分にとって見慣れないものに対してレッテル貼りをするために。その逆に、古参のファンによる平成に対する偏見も当然ある。
 戦隊に関してもきちんと時代区分を考える必要がある。世代間の対立を煽ろうとする連中が、変な名前を付ける前に。

1.戦隊マップに基づく分析

戦隊マップ・時代区分  仮面ライダーやウルトラマンで「昭和」「平成」という単語が使われるのは、そこに一定のイメージがあるからである。ではそれを戦隊に当てはめるとどうなるだろうか。
 結論を先に言うと、昭和は1995年『オーレンジャー』までの作品、ただし1991年の『ジェットマン』は除く。計18作品。平成は『ジェットマン』及び1996年『カーレンジャー』以降の作品。2014年現在で計20作品。
 1990年代前半の時代の激変に、戦隊シリーズはいち早く呼応し、新しいヒーロー像を打ち立てた。だがその後で揺り戻しがあったことが、ややこしい結果を生んだ。「昭和戦隊」「平成戦隊」といった言葉の使いにくさはここに由来する。
 この二つの時代の違いを一言で言えば、「正義の確からしさ」である。もちろん「正義とはなにか」「自分は一体何のために戦うのか」といった問いがヒーローの頭を悩ませることは昔からあった。しかし昔は、最後には答えはきっと見つかるはずだ、という確信を持つことができた。今はそうではない。その違いである。
 戦隊マップでいうと前世代が右上、新世代が左下ということになる。
 そしてそれぞれ更に、右下側に固まっている時期と、まんべんなく散らばっている時期とに分けられる。正義を実現させるためには、どういう戦い方をすればいいのか。その問いかけが、その区分を形成する。戦隊マップの右下であれば戦い方は一様、左上であれば多様である。
 つまり戦いの目的と手段という、この二つの軸によって、戦隊シリーズは六つの時代に分けることができる。
 第一期。目的=確定、手段=一様。
 第二期。目的=確定、手段=一様〜多様。
 第四期。目的=確定(やや弱い)、手段=一様。
 第三期と第五期。目的=不確定、手段=一様〜多様。
 第六期。目的=不確定、手段=一様。
 多様で固定されている時期というのはない。そのため、戦隊マップにおいて比較的狭い場所に集中している時期と、広い場所に散らばっている時期とが交互に現れる。第六期以降についてはマップは未作成だが、X軸上の真ん中辺りに固まるはず。
 全戦隊中最も公度の高い『サンバルカン』の次が、全戦隊中最も私度の高い『ゴーグルファイブ』であることが、第一期と第二期との区切りをこの上なく分かりやすいものにしている。一方で、『ガオレンジャー』が入るのは第五期か第六期なのかは、戦隊マップからは判断が下せない。次節以下の分析に従って第五期に入れた。

2.各作品の内容に基づく分析

 正義が何に基盤を置いているかによって、各期は特徴づけられている。それが各作品において、戦士の目的や手段を規定する。
 第一期は「現実にもとづいた正義」の時代である。戦いは既に始まっており、戦士たちはそれに従って戦うのみ。「正義とは何か」などという疑問が戦士たちの頭に浮かぶこともない。
 この時期の戦隊は、すべて公的な機関に所属しているという共通点を持つ。例外は『デンジマン』だけだが、これもデンジ星の亡命政権に所属する戦隊と見なせないこともない。いずれも信頼に足る司令官が存在し、その命令に従い規律を守って行動する。司令官と戦士、あるいは戦士同士の間で意見が対立することも皆無ではないが、大きな問題に発展することはない。
 第二期は「理念にもとづいた正義」の時代である。この時期の作品は、司令官があまり偉くないという共通点がある(司令官自体が存在しない、自発的に結成された戦隊も三つある)。組織の規律に従って戦う戦隊もあれば、個人の自主性に任せて戦う戦隊もある。
 隊内で意見の対立をみたり、バラバラに行動したりする機会も増える。それでもチームが空中分解することはない。自分たちは一つの正義のために戦うのだという理念が全員に共有されているからである。
 一つ飛ばして第四期は「権威にもとづいた正義」の時代と呼べる。四作中三作がファンタジーであり、残る『オーレンジャー』においても超力には神秘的な力という設定がある。四作品とも、世界はこういう法則に従って動いているという説明があり、戦士たちは権威者の言うことに黙って従うだけである。その法則が正しいという確信や実感があるわけではない。
 第三期・第五期は「決断にもとづいた正義」の時代である。絶対的な正義などというものは、もはや存在しない。自分はなぜ戦うのか? 自分が戦いたいと思ったからである。それが正義だと、自分で決断したからであり、その正しさを保証してくれるような上位者はもはや存在しない。戦い方も当然自分で考えなくてはならない。
 悩んだり迷ったりするヒーローも増える。そしてそれに正解が与えられることはない。
 そして第六期。いわば「慣習にもとづいた正義」の時代とでも言おうか。今まではこういうやり方で社会の秩序は保たれてきた、だからこれからもそれを続けるのみ。正義とは何かという問題に対して戦士が苦悩する機会も減少傾向に転ずる。それは、悩んだところでどうせ正解は得られないということが、知れ渡ってしまったからであろう。

3.スタッフの名前に基づく分析

 脚本監督 脚本監督
1975平山
吉川
上原竹本弘1996高寺浦沢小林
1997武上長石
1977吉川1998小林靖田崎
19791999日笠武上小中肇
19802000小林靖諸田
19812001武上
1982鈴木曽田東條2002
宮下渡辺
19832003荒川小中肇
19842004塚田渡辺
19852005前川
19862006日笠會川諸田
1987長石2007塚田横手中澤
19882008日笠武上渡辺
19892009宇都宮小林靖中澤
19902010若松横手長石
1991井上雨宮2011宇都宮荒川中澤
1992杉村東條2012武部小林靖柴崎
1993小林2013大森三条坂本浩
19942014宇都宮小林靖中澤
1995東條 
 プロデューサー・脚本・監督において、最も主導の役割を務めた人の名前を表に示す。このうちメイン脚本家・パイロット監督については異説はないが、チーフプロデューサーに関しては、インタビュー記事などを元に作成したものであって、間違っている部分があるかもしれない。だいたい「チーフプロデューサー」といっても、対外的な最高責任者と、実務上の中心人物とが別々というケースもある。この表では後者の名を示した。『ゴレンジャー』に関してだけは、どうしても特定できなかった。
 プロジェクトを立ち上げ、それを安定した軌道に乗せるまでは強烈な個性を持った人間がぐいぐいと引っ張っていく必要があるが、いったん軌道に乗ってしまえば後は誰がやっても同じ。創業と守成の時期は同じ人間が何年も連続して当たるが、その後は頻繁に担当者が交代する。多くの分野で共通するパターンであり、戦隊シリーズもその例に漏れない。
 戦隊シリーズでは第一期が創業、第二・三・四期が守成に相当する。吉川進プロデューサーのもと、脚本家の上原正三と監督の竹本弘一によって戦隊の礎石が築かれ、それを鈴木武幸が引き継いでシリーズは盤石のものになった。脚本家には曽田博久(第二期)・井上敏樹(第三期)・杉村升(第四期)を起用し、メイン担当期間がそのまま時代区分となっている。また監督では長石多可男・東條昭平といった面々が腕をふるって時代を画する業績を残した。
 第五期以降は事情がかなり変わる。スタッフが大幅に入れ替わるが、これは単なる世代交代ではない。同じ人間が何年も連続して務めるということ自体が少なくなる。連続して務めても、一人の人間の個性によってシリーズ全体が色染められることはもはやない。プロデューサーも裏方としての仕事の比重が大きくなり、あまり自分の色を前面に出すことはなくなった。
 かといって固定起用の方針が全くなくなったわけではない。メインライターでは、武上純希と小林靖子が隔年で担当する時期が五年続いた後、メインを担当するのは初めてという人ばかりが続く。そしてほとんど一年で交代し、多くはその後二度とメインを担当することはなかった。この六年間の五人は流動起用の極みといっていい。ここが第五期と第六期の境界に相当する。
 それ以降は脚本・監督とも、特に固定的とも言えず流動的とも言えない時期が続いている。
 2013年にはプロデューサー・監督・脚本の三人とも、メインの立場は初めてという人が担当した。これは31年ぶりのことであったが、特に時代を画する作品になるということもなかった。第七期があるとすれば、それはどのような形で現れることになるだろうか。

4.他シリーズとの兼ね合いに基づく分析

戦隊の歴史  スーパー戦隊シリーズの歴史を語るにおいて欠かせないのは、東映の他の特撮シリーズとの兼ね合いである。
 1971年に『仮面ライダー』が放映、これが社会現象を巻き起こすほどの大ヒットとなる。仮面ライダーシリーズは東映特撮の看板スターとなり、他の特撮作品もすべて、仮面ライダーを意識しないわけにはいかなかった。戦隊シリーズもまたその例に漏れない。何しろ第一作の『秘密戦隊ゴレンジャー』からしてライダーシリーズの没企画の流用である。ライダーに対してこっちは分家だという意識は拭いがたくあった。
 仮面ライダーといえば、自由と孤独の戦士というイメージがある。それは、何の組織にも所属していないことに由来する。第一期戦隊が、組織の規律に従って戦う戦士たちであるということを強く打ち出していたのは、ライダーとの差別化という意識があったことは疑いえない。
 1981年にライダーシリーズが二度目の中断期間に突入すると、風向きは少し変わる。翌年にその入れ替わりで始まった宇宙刑事は、徹底的に仮面ライダーの逆を行くものであった。過去の成功体験からの訣別という意気込みが東映にあったことは疑いない。ライダーとの最大の相違点は、主人公が銀河連邦警察という大きな組織に属し、その組織の方針に従って戦うということである。
 ライダー宇宙刑事
プロデューサー平山亨吉川進
脚本伊上勝上原正三
監督山田稔小林義明
音楽菊池俊輔渡辺宙明
アクション大野剣友会JAC
デザイン石森章太郎村上克司
 時を同じくして戦隊シリーズが、規律型ヒーローから自由と規律の二本立てのヒーローへと舵を切ったのも、この流れに沿った結果といえる。もはや仮面ライダーとの差別化など意識することはない。だから1987年に『仮面ライダーBLACK』が始まった時、戦隊シリーズがその影響を被ったりすることはもはやなかった。
 宇宙刑事の存在を戦隊シリーズが意識することはなかったのだろうか。多分なかった。宇宙刑事は仮面ライダーシリーズとのつながりを断つため、主要スタッフはすべて戦隊の主力を横滑りさせて立ち上げたものだったからである。戦隊と宇宙刑事では宇宙刑事のほうが分家にあたる。宇宙刑事ははっきりと規律型のヒーローであり、それを祖として始まったメタルヒーローシリーズも規律型が多かったが、戦隊シリーズがそれを意識して自由型のヒーローに傾くということはなかった。
 今やライダーに代わってスーパー戦隊こそが東映特撮をリードする存在だという自信が、戦隊第二期という時期を作っていたと言っていい。
 だから1990年代前半の「時代の壁」にぶち当たり、ヒーロー像模索の時期に入ると状況はまた変わる。仮面ライダーシリーズが復活した時だけ戦隊が作風の幅を狭め、それが終われば再び広げる、その繰り返し。1992年〜94年にはビデオ・劇場用作品として『真』『ZO』『J』が作られ、これが戦隊第四期(1992〜95年)とほぼ重なる。そして2000年に平成仮面ライダーシリーズ開始。
 とりあえず2年は続ける予定で始めたものが、人気が出たので長く続くことになったものである。メタルが相手ならともかく、ライダーが相手とあっては住み分けを意識しないわけにはいかない。2002年が戦隊第六期の開始を告げる。
 戦隊とライダーには、もはや以前にあったような本家分家という意識はない。仲良く東映特撮の二枚看板という扱いである。ただ、歴史的に見て戦隊のほうがライダーよりも作風の幅は広いのであるし、両者の差別化を意識することは即、戦隊にとっては作風の幅を大きく狭めることに直結する(ライダーにとってはそれほどでもない)。近年は映画で戦隊とライダーが共演する機会も急激に増えたが、今後この二つのシリーズはどのような関係を保っていくのか、注意してみていく必要があろう。