詳論・スーパー戦隊シリーズの第一作は何か

(最終更新 2014.9.27)

戦隊の歴史  スーパー戦隊シリーズが始まったのは何年かと聞かれれば、1975年つまり『秘密戦隊ゴレンジャー』の始まった年と答えるのが今の戦隊ファンにとっての常識であろう。しかし以前はそうではなかった。1995年秋までは、1979年つまり『バトルフィーバーJ』の始まった年とする見解のほうが有力だった。
 どっちのほうが正しいのか、という議論をするわけではない。そもそもこれは、「どっちが正しくてどっちが間違っている」という形で決着をつけるような問題ではない。あくまでも解釈の問題なのである。
 特撮ヒーロー物の世界において、集団ヒーローというのは長らく邪道というか、少なくとも王道と扱われることはなかった。1975年に『ゴレンジャー』の放映が始まったのも、在阪テレビ局のネットチェンジという偶然で、没企画が日の目を見た結果である。そして『ゴレンジャー』が大ヒットをした際、その認識が改められたかというと、そうでもなく、単に奇抜なアイディアのまぐれ当たりと受け止める向きも多かった。戦隊シリーズが「軌道に乗る」という状態に至るまで、その後も続いた苦難の道。いろいろ要素が加えられたり省かれたり、試行錯誤のすえにシリーズとして認められたという経緯のゆえに、「この作品からシリーズの歴史は始まった」という、明確に断定できるようなものがないのである。
 『ゴレンジャー』を第一作とする見解が現在ファンの間で広く支持されていることについては、相応の妥当性がある。だがそれはあくまでも相対的な正しさであって、絶対的な正しさではない。その混同が、戦隊シリーズの歴史について大きな誤解を生じさせている。本稿の目的はそれを正すことである。
 そしてそれは、四十年近い歴史を誇る「栄光の」スーパー戦隊シリーズ、それが産声を上げ、育った環境が、どれほどの無理解に満ちたものであったのかという事実を知ることでもある。

1.『バトルフィーバーJ』はリベンジ戦だったという誤解

 テレビドラマの番組には「二部作」というのが多い。
 番組がヒットする。すると続編的な番組が作られる。しかしそれは第一作ほどの人気は得られないのが普通である。第一作と似すぎていると飽きられるし、似ていなさすぎると続編として作る意味がない。前作から何を引き継ぎ何を変えるか、さじ加減は極めて難しい。たいていの場合、第二作目が不振に陥れば第三作目を作るチャンスを与えられることもなく、やがて時の彼方に忘れられることになる。その中には、うまく作れば大人気シリーズになったかもしれない作品もあったことであろう。
 『ゴレンジャー』と『ジャッカー電撃隊』(1977年)もそうなるはずであった。
 『ゴレンジャー』は面白い集団ヒーロー物を作るためのノウハウがギッシリと詰まった作品であった。もし当時の関係者に、「先見の明」というものがあれば、このアイディアを発展させていけば巨大なジャンルへと成長していくことが予測できたであろう。『ジャッカー』は視聴率不振のために打ち切りになったが、それとて裏番組に『連想ゲーム』『クイズダービー』『欽ちゃんのどドンとやってみよう!』と、すさまじく強力な番組がひしめいていたという事情があった上でのことである。たった一度の失敗で、シリーズ化の試みを頓挫させることなどなかった。そして時間帯を移動させるなどして、挽回のチャンスを与えてもよかったはずなのである。しかしそうはならなかった。一度でも失敗したものに、二度とチャンスは与えないのがこの業界の掟である。
 「でもその“挽回のチャンス”が『バトルフィーバーJ』ではなかったの?」
と思うかもしれない。それが最初に挙げた「大きな誤解」である。
 そもそも『バトルフィーバー』とは何だったのか? 誕生の経緯だけを見れば、それは『ゴレンジャー』から続くシリーズの第三作というよりは、『スパイダーマン』(1978年)から続くシリーズの第二作というべきものであった。
 『ジャッカー』が打ち切りをくらったその翌年、東映はアメリカのマーベル・コミック・グループと提携して『スパイダーマン』を制作する。アメリカンコミックの単なる実写化ではない。キャラクターだけ使って後は自由にしてよいという契約であり、最大の変更点は、主人公であるスパイダーマンが等身大の敵と戦いつつ、巨大ロボ「レオパルドン」を操縦して巨大な敵とも戦うという設定を盛り込んだことである。三十分の中に等身大戦と巨大ロボ戦の両方をやるという方式は、この作品で確立された。これが視聴率や関連商品の売り上げという点で成功をもたらし、そしてマーベル提携第二弾として企画されたのが『バトルフィーバー』だったわけである。
 「巨大ロボ戦も行なうヒーロー」という要素を『スパイダーマン』から、「集団ヒーロー」という要素を『ゴレンジャー』『ジャッカー』からそれぞれ引き継ぎドッキングさせ、「巨大ロボ戦も行なう集団ヒーロー」として誕生した作品が『バトルフィーバー』であった。ではどちらが本流でどちらが支流なのだろうか。番組の誕生の過程だけを見れば前者が本流で後者が支流だが、その後の歴史は、後者が本流で前者が支流と言った方がいいような状況になっていく。
 合流地点である『バトルフィーバー』自体は、この両者からの流れのうちどちらの色が濃いとも断言できない。だがこれが成功してその後番組として『電子戦隊デンジマン』(1980年)が制作されると、『ゴレンジャー』『ジャッカー』の衣鉢を継いだという面の方が濃厚に打ち出されるようになる。一方マーベルとの契約は続いてはいたものの、『スパイダーマン』『バトルフィーバー』と続いたアメコミ風味は継承されることはなかった。受け継がれたのは巨大ロボ戦だけである。そしてそのスタイルが『デンジマン』以降継承され、戦隊シリーズは軌道に乗る(ちなみにマーベルとの契約は、その次作の『太陽戦隊サンバルカン』(1981年)まで続いた)。
1972年トリプルファイター
1973年流星人間ゾーン
1974年 
1975年秘密戦隊ゴレンジャー
アクマイザー3
1976年宇宙鉄人キョーダイン
忍者キャプター
超神ビビューン
円盤戦争バンキッド
バトルホーク
1977年ジャッカー電撃隊
1978年 
1979年バトルフィーバーJ
 当時はやはり、集団で戦うヒーロー物を異端視する風潮は確かに存在していた。一人で戦ってこそ正義のヒーローなのだという。それが、『ゴレンジャー』がヒットした途端に、新作が続々と作られることになる。表に示したのは1975年前後の集団ヒーロー番組名である(赤は東映以外)。当然のことながら『ゴレンジャー』以降の作品はその影響を大なり小なり受けていた。『バトルフィーバー』もまたそれらの作品群の中の一つにしか過ぎず、別に『ゴレンジャー』の嫡子というわけではなかったのである。ただ、それらの作品群の中で『バトルフィーバー』が最も大きな成功を収めることができたのは、『ゴレンジャー』の血を最も濃く受け継いだからであるのは明らかであった。そして『デンジマン』以降はさらにその濃度を増す。その結果として、集団ヒーロー物のメソッドを『ゴレンジャー』から、ほぼそっくりそのまま引き継ぐことになったのである。
 『デンジマン』で軌道に乗った後も、シリーズはいろいろな試みを続けていた。さまざまな要素が誕生し、あるものは引き継がれ、あるものは途絶え、またあるものは途絶えた後で復活した。そのようにして戦隊シリーズの歴史は紡がれていった。だが、すべての作品に欠かさず引き継がれるような要素は、そのほとんどすべてが『ゴレンジャー』によって開拓されたものであった。例外はたった一つ、『バトルフィーバー』から合流した「巨大ロボ戦」という要素だけである。こうなるとスーパー戦隊シリーズの第一作という名誉は、やはり『バトルフィーバー』よりは『ゴレンジャー』が担うのが妥当という感じはする。
 ただ、もともとシリーズ第三作として作られたわけではない作品を、第三作としてしまったという事実は消せないし、それが色々な誤解を生じさせることにもなった。戦隊シリーズは『ジャッカー』の失敗で一旦の打ち切りにあい、その反省を糧にして捲土重来を期して作られた作品が『バトルフィーバー』なのである、というふうに勘違いしている人は多い。
 だが、捲土重来を期したにしては、辻褄が合わない部分が多すぎる。普通そういう作品は、原点回帰というか、『ゴレンジャー』に作風が近くなるはずである。ところが『バトルフィーバー』は全くの正反対、アクの強さは歴代随一。『ゴレンジャー』に作風が近いのは次の『デンジマン』である。
 『ゴレンジャー』が大ヒットした原因の一つに挙げられるのが、石森章太郎(後に改名して石ノ森章太郎)によるマスクデザインである。顔面の中央にでっかくマークがのった『ゴレンジャー』のマスクのインパクトは大きかった。だがその奇抜さは、二回と成功するものではないということを『ジャッカー』の失敗が示す。石森なくして戦隊の誕生はなかったが、石森デザインを捨てることなくして戦隊の発展もなかったのである。
 そこでリベンジを果たそうとするのであれば、奇抜さを抑えたスマートなデザインで勝負しようと思うのが普通である。ところが『バトルフィーバー』のアメコミ風味のデザインは奇抜さは相も変わらず。洗練された印象を持つゴーグルタイプのマスクは、次作の『デンジマン』からの登場なのである。
 他に、『ゴレンジャー』のヒットした原因として挙げられるのが「色」である。全員が個人カラーを持ち、『デンジマン』以降のすべての戦隊シリーズ作品もそれを継承している。それに対して『バトルフィーバー』では、コサックがイエローなのかオレンジなのか、ケニアがブラックなのかグリーンなのか、よく分からないことになってしまっている。
 もう一つだけ挙げる。戦隊シリーズは、戦士全員が統一した形式を持っている。衣装もそう。五人の戦士のうち、ミスアメリカ一人だけが太ももをむき出しにしたコスチュームを着ているのは、これはもう明らかに戦隊らしくない。いやもちろん四十年近く続いている戦隊シリーズであるから、異色作というのは他にもある。ただ『バトルフィーバー』の異色さは、もともとシリーズ作品として作られていないのを後付けでシリーズ作品にしたような異色さであることは、誰の目にもはっきりと分かる。
 スーパー戦隊シリーズの第一作は『ゴレンジャー』ではなく『バトルフィーバー』であるという意見は少数派であるものの、今なお根強く存在している。巨大ロボ戦の存在を重要視する立場、原作者が石森章太郎か八手三郎かの違いにこだわる立場、いろいろあるだろうが、やはり根底には、もともと第三作でなかったものを第三作にしてしまったことに対する違和感がある。もちろん『バトルフィーバー』を第一作にしたら、それはそれで問題が全くなくなるわけでもないが。
 ならば『デンジマン』をシリーズ第一作にしてしまえばいいのではないか、という意見も出るであろう。だがそれはそれで問題がある。スーパー戦隊をスーパー戦隊ならしめている、その最も根幹にあるものは、チーム全員が主人公だという事実である。
 『ゴレンジャー』以前にも、アニメやマンガや特撮ヒーロー物において、グループヒーロー物というのはあった。だがそれらと比べて『ゴレンジャー』が決定的に違っていたのは、五人全員が主人公であって、「一人の主人公が四人の仲間とともに戦う物語」ではないことをこれ以上なく鮮明に打ち出していたことである。そしてそれは後続の作品に代々濃厚に受け継がれていった。そういう意味で、『バトルフィーバー』もまた戦隊シリーズから外すことはできないと言うべきであろう。
 『忍者キャプター』(1976年)についても触れておこう。これを戦隊シリーズに入れるべきという考えが全く存在しないわけではない。だが実際に作品を見てみれば分かるが、やはりこれは火忍キャプター7が主人公で、六人の仲間とともに戦う物語という面が濃いのである。まあそういう話をすると、『ジャッカー』も第23話以降だけはシリーズから外せという話になりかねないが(言うまでもなくビッグワンのことである)。

 テレビ局の問題にも触れておきたい。『バトルフィーバー』が『スパイダーマン』の後を継ぐ作品であるならば、なぜ違うテレビ局で放映されることになったのか、という疑問は当然わく。『スパイダーマン』は東京12チャンネル(現在のテレビ東京)、『バトルフィーバー』はテレビ朝日であり、それは『ゴレンジャー』『ジャッカー』を放映した局でもある(ちなみに『ゴレンジャー』放映当時の局名はNET)。以下に表に示すのは、1979年1月〜3月の改編期の番組名である。いずれも東映の制作・製作によるものであり、赤はアニメである。
時間帯それ以前改編前改編後
NET〜
テレビ朝日
土 19:30-
20:00
仮面ライダーシリーズ
秘密戦隊ゴレンジャー
ジャッカー電撃隊
透明ドリちゃん
宇宙からのメッセージ 銀河大戦(他社)
土 18:00-
18:30
超電磁ロボ コン・バトラーV
超電磁マシーン ボルテスV
闘将ダイモスバトルフィーバーJ
東京12
チャンネル
水 19:30-
20:00
忍者キャプター
快傑ズバット
とびだせ!マシーン飛竜
スパイダーマン未来ロボ ダルタニアス
 『ジャッカー』が打ち切られた後も、テレビ朝日の同じ枠で東映の特撮番組の放映は続けられた。その後『宇宙からのメッセージ 銀河大戦』(1978年)が再び視聴率不振による打ち切りをくらったとき、テレビ朝日は東映特撮と縁を切るという選択肢もあったはずである。だが、時間帯を変えて『バトルフィーバー』を放映したのは、『ゴレンジャー』の実績があり、その類似作品を作るのであれば是非とも我が局でやるべきと考えたからだ――というふうな見方は可能である。
 しかしもう一つ事情があったのである。『スパイダーマン』と同じ時期、東映が製作に関わるアニメ『闘将ダイモス』(1978年)がテレビ朝日で放映されていた。『超電磁ロボ コン・バトラーV』(1976年)・『超電磁マシーン ボルテスV』(1977年)に続く長浜ロマンロボシリーズの第三作と呼ばれる作品である。これが前二作品ほどの成功をおさめることもできず話数も短縮され、スポンサーとの確執もあって第四作目の放映のめどが立たなくなる。そこでテレビ局同士の交渉によって枠の交換が行なわれたと言われている。そして東京12チャンネルでは特撮『スパイダーマン』の後番組にアニメ『未来ロボ ダルタニアス』(1979年)を、テレビ朝日ではアニメ『ダイモス』の後番組に特撮『バトルフィーバー』を放映することになったというわけである。
 もっともこの「枠の交代」、詳しい事情がオープンになっているわけでもなく、半分は推測である。いずれにせよ、東映と二つのテレビ局との間で交渉が重ねられ利害の調整が行なわれ、結果としてテレビ朝日で放映されることに決まったという事実に間違いはない。
 つまり『バトルフィーバー』以降の戦隊シリーズが、テレビ東京で放映される可能性というのも十分にあったのである。もしそうなっていたら、『ゴレンジャー』『ジャッカー』が戦隊シリーズに入れるかどうかというのは、もっと活発な議論になっていたことであろう。テレビ局が同じになったことで、分かりやすくなった。だが一見分かりやすいことが却って深い事情を見えにくくする、ということはあるのである。

2.東映の公式見解には従うべきという誤解

戦隊の書籍  「スーパー戦隊」とか「戦隊シリーズ」とかいう言葉が初めて使われたのはいつなのか、よく分かってはいない。商品の名前に使われたのは、『スーパー戦隊図鑑』(徳間書店、1981年、図の1)が嚆矢と考えられている。シリーズ物であるという考えが定着したのは『サンバルカン』からだから、これが最初の使用例と考えて差し支えないであろう。そしてここではなんと『ゴレンジャー』を第一作としているのである。
 スーパー戦隊シリーズというと、最初は『ゴレンジャー』『ジャッカー』が入っていなくて、後から加えられたと思っている人は多い。違うのである。最初は入っており、一旦省かれ、さらに後になって再び加えられたのである。
 『サンバルカン』以降に出された書籍、レコード、ビデオなどの戦隊グッズにおける扱いを見ると、実は『ゴレンジャー』を第一作とする見解のほうが多数派であった。『バトルフィーバー』からシリーズが始まるとする見解もあったが、シリーズの名称も決められず、結局はこっち側も「スーパー戦隊」という名称を用いることになる。そして混乱が始まる。『超戦隊vs悪魔軍団』(1984年、実業之日本社、図の2)という本が「スーパー戦隊」という文字を書名に避けたのは、やはり遠慮があったからだろうか。
 1986年『超新星フラッシュマン』の放映が始まった時は、これを記念すべき十番目のスーパー戦隊であるとみなして、雑誌では戦隊大集合の特集記事が載り、また書籍やビデオが各社から出た。第一作はあくまでも『バトルフィーバー』だと、孤塁を守ったのは『集合! 8大スーパー戦隊』(1986年、講談社、図の3)くらいなものである。
 なぜ講談社なのか。元々『ゴレンジャー』が作られた時、出版の分野では小学館が主導権を握り、講談社の本や雑誌には載せないという契約を結んでいた。そういう経緯があったので、講談社としては『ゴレンジャー』に対して面白い感情を持っていなかったのではなかろうか。まさか1986年当時もまだそんな契約が効力を有していたとは思えないが。『ジャッカー』もまた前作と同様、『スパイダーマン』『バトルフィーバー』は逆に講談社主導で小学館排除、『デンジマン』以降は両社仲良くスーパー戦隊の盛り上げ役。なお、『太陽戦隊サンバルカン(4)』(「おともだち」絵本シリーズ、講談社、図の4)ではアカレンジャーとスペードエースの写真が載っている。
 1988年に『超獣戦隊ライブマン』を、十番目のスーパー戦隊記念作品として放映すると東映が発表した時、戸惑った人もいたはずだ。なんでわざわざ少数派の見解に与するのかと。さらに不思議なことに、当時の書籍とかを読むと、「スーパー戦隊シリーズは、1979年に全く新しい作品ジャンルとして始まりました」などと、なんか妙に「全く新しい」ということを強調する態度が目につくのである。
 いかなる事情が背後にあったのかは知らない。ただ推測はできる。1993年秋に『ゴレンジャー』『ジャッカー』をシリーズに加え、「超世紀全戦隊」というシリーズ名にするという発表が東映からなされた際、東映のプロデューサーが「石ノ森先生ともご相談いたしました結果……」という発言をしている。多分、石森プロとなんか揉め事でもあったのであろう。そしてそれが解決したことで、『ゴレンジャー』『ジャッカー』の二作品をシリーズに加えることが正式に決まったに違いない。どんな内容の揉め事であったのか、そこまでは分からないが。
 石ノ森章太郎氏が生前に『ゴレンジャー』に対して書いた文章を読んでいると、色々複雑な感情を持っていたであろうことは容易に想像がつく。真意はよく分からない。スーパー戦隊シリーズに対しては、何も書き残してはいない。
 さて、その1988年春〜1993年秋の五年半の間に発売された、書籍やビデオは戦隊シリーズをどのように扱っていたのであろうか。さすがに1988年とその直後だけは『バトルフィーバー』を第一作と扱うものが増えたが、それを過ぎると元に戻って、東映の公式見解を無視するのが増える。『スーパー戦隊ヒロイン写真集』(徳間書店、1993年)は、「スーパー戦隊15周年記念」などと銘打ちながら、中身は17作品という変な本である。
 しかし「超世紀全戦隊」のネーミングセンスはあまりにもひどすぎた。定着するしない以前の問題で、使う人は誰もいなかった。出版物でも「スーパー」を付けない「戦隊シリーズ」とか「戦隊ヒーロー」とか。東映ビデオなんかは、もう堂々と「スーパー戦隊」という名称を使い続けた(1995年、図の5)
 そして2000年、本当に「世紀を超える」その直前、『未来戦隊タイムレンジャー』で「スーパー戦隊シリーズ」という呼称が公的に復活、今度は『ゴレンジャー』『ジャッカー』を含み、そして現在に至る。「超世紀全戦隊」という呼称は廃棄する、という公式アナウンスがあったわけではないが、まあ心配しなくても二度と使われることはないだろう。
 さてここで問題にしたいのは、東映という会社のスタンスである。一応社としての公式見解は出す。だが出版社やグッズを作る会社に対して、それを守らせようという要請は一切しない。そういう態度を一貫してとり続けてきたということが分かる。
 ケイブンシャの大百科『科学戦隊ダイナマン』(1983年、図の6)、この表紙には『忍者キャプター』の名前がある。これを見て、「ほう、1983年当時は『キャプター』も戦隊シリーズに入れられていたのか」などと勘違いしてはならない。単にケイブンシャの編集者がそう思いこみ、東映の担当者がそれについて何も言わなかっただけの話である。これは翌年の『超電子バイオマン』でも続き、その後いつのまにか『キャプター』は外されていた。何の断りもなく。
 いまでも『バトルフィーバー』こそが戦隊シリーズ第一作だという信念を持ちつづている人というのはいる。彼らに対して、東映が『ゴレンジャー』を第一作だと公的に決めたのであるから、君たちもそれに従うべきだ、などと文句をつける人がいる。大きなお世話である。東映としても、どれかを第一作と定めておかないと、記念作も作れない。だから『ゴレンジャー』にしているだけであって、ファンにその考えを押し付ける気など全くないのである。これまでずっとそういう態度でやってきた。そしてそのスタンスは今後も続くと見なすべきであろう。1998年に長谷川裕一氏が『すごい科学で守ります!』(NHK出版)という本を東映の認可の下で出したときも、シリーズをどこから始めるかという問題について、何一つ言われなかったらしい。
 「おおらか」と言えば聞こえはいい。だがそれは言い方を変えると、無関心ということでもある。
 同じ東映特撮である、仮面ライダーシリーズと比較すると分かりやすい。『仮面ライダーストロンガー』(1975年)に出てきたタックルは、仮面ライダーではない。このことに解釈の余地はない。仮面ライダーというのは、東映特撮にとっての看板スターであり、石ノ森章太郎の代表作でもある。「仮面ライダーとはこういうもの」というイメージは作り手の側によるコントロール下に置かれ、ファン一人一人の解釈に委ねられたりすることはない。
 それに対してスーパー戦隊は昔から、「一年たったら使い捨て」の精神で作品を送り出してきた。それは決して悪いことばかりではない。その精神が毎年毎年作品に活力を吹き込んできたという面もある。ただ、過去の作品を大切にせず、シリーズそのもののブランドバリューを高めるために、東映が長年何の努力も払ってこなかったというものまた事実である。そしてその姿勢が、今なおシリーズ第一作がどれなのかが厳格に決められないという現状につながっているのである。
 「レジェンド商法」と言うのか、最近はスーパー戦隊に関しても、東映は態度を改めて、過去のヒーローを利用した商売を盛んにするようになった。映画に過去のヒーローを出したり、グッズを出したり。しかしその割には、なんか過去の作品に対する敬意が欠けているというか、大切にしようという気概が感じられないというか、そんな感覚に時々襲われる人もいるであろう。そういう時は、スーパー戦隊の歴史について思いを馳せてみてほしい。
 長年染み込んだ体質というのは、そうそう変わるものではないのである。