戦隊史学基礎(応用編)

―― 戦隊マップ作成の手順

(最終更新 2014.9.3)

 本章では、戦隊マップ作成にあたっての、具体的な作業の手順について述べる。
 アプローチは二つある。一つは原因から探ること、もう一つは結果から探ることである。
 順番に述べていく。

1.設定からのアプローチ

 スーパー戦隊シリーズの作品を最も根底から支えているのは、勧善懲悪の世界観である。では勧善懲悪とは何か。
 ごく簡単に言うと、この世界は具体的にどのような法則に従って動いているのかが、あらかじめ明示された上で展開される物語のことである。二つの勢力が争ったとする。両方のデータが出揃った時点で、どちらが勝つかは戦う前に分かる。「戦う前」というところが重要である。皮肉屋がよく、「正義はかならず勝つ」と「勝ったほうが正義」とはどこが違うのか、などと言ったりする。全然違うのである。
 主人公は、何かしら特殊な資格を持った人間として設定される。宿命を帯びた血筋を引いているとか、特殊なエネルギー波を浴びて超能力を身につけたとか、あるいはもっと抽象的に、深い悲しみを知っているとか。その資格は、たいていは作品の冒頭で明らかになっている。中には理由もわからぬまま戦いに巻き込まれ、資格は戦いを通じて徐々に明らかになっていくものもある。そしてその資格を身につけたものは、強く、やさしく、勇気のある戦士であって、戦いにおいては決して負けない保証を得ることになる。
 肝心なことは、その資格そのものは、全く根拠なく定められたということである。資格が血筋によって決まる設定の作品であれば、その血を引いていない人間が、どんなに正しい心を持とうが、どんなに努力しようが、正義の戦士としての資格を得ることはない。負ける時は負ける。「血筋なんかで決まるのはおかしい」という疑問が、どんな人間の頭にも浮かぶことはない。作中人物の全員がそうであるし、また作品を作っている人間も見ている人間もそうである。そのような決め方をしたほうが、そうでないよりも色々便利なことがあるとかいうこともない。完全な無根拠であることは、数学の公理と同じである。
 将棋の銀は、なぜ横に動けないのだろうか。そうルールで決まっているからである。それ以外に答えようがない。一応「動けないというルールにしたほうが、ゲームがより面白いものになるから」という答えはありうる。では将来ルールの改定が行なわれ、銀が横に動けるようになり、「こっちのほうが断然おもしろい」と言われるようになる可能性はないのだろうか? 将棋というゲームを面白くする可能性を虱潰しに検討した結果として、銀は横に動けないというルールが制定されたわけではない。歴史の積み重ねなど、さまざまな要因によって、そうなっているのである。そして現在プレイヤーはみんなそれを守ってゲームを楽しんでいる。そうである以上、それを犯すことは許されない。絶対にである。
 ただ、実際に作中におけるヒーローが、いつもいつも正義の戦士たる条件を十割満たしているとは限らない、ということには留意しておく必要がある。十割の正義をまとった戦士には十割の勝利が保証される。五割の正義しか身につけていない戦士には五割の勝利しか保証されない。苦戦もするし、犠牲者も出す。強い相手が出てくれば当然負ける。
 身にまとう正義のパーセンテージが一割とか二割とか、あまりに低すぎると、普通のドラマと大して変わらなくなる。それはそれで構わない。ただ、戦隊シリーズでそれをやると、最後がいろいろと面倒になる。どんな戦隊であっても、毎年二月の最終決戦では、悪の組織の首領に勝たなければならないからだ。負けて終わる最終話などありえない。そして最後の敵が弱いと視聴者が満足しない。まあそこは作り手にとっても腕の試される所であろう。
 さていよいよ本題に入る。正義をまとった戦士は勝利へと引っ張られる。その引っ張る力は、二つに分類することができる。一つは、たとえばヒーローが五人いた場合、五人をまとめて駆り立てる力であり、もう一つは五人を別々に駆り立てる力である。正義の認定証が、組織に対して与えられたのであれば前者となり、個人に対して与えられたのであれば後者になる。
戦隊マップ・入出力  具体的にはどういうことか。
 ある人間が、正義の戦士としてふさわしいと認定されたとする。その認定には二種類のものが混じっている。一つは純粋にその個人に対してのものであって、今後何が起ころうと、どのような戦い方をしようと、それが剥奪されることはない。もう一つは、その人間はまずチームに入れと言われる。そしてチームの方針に従ってトレーニングをし、チームの戦術の指揮に従い、チームの一員としての自覚を持って戦うよう指導を受ける。そのことによって初めて正義の力を発揮できるようになるわけであり、従うのが嫌だというのであれば、当然認定は失効する。
 後者の場合は、まず組織が戦いの方針を定め、それに合わせて個人の戦い方も決まる。前者の場合は逆である。組織のほうが個人に合わせるのである。スポーツを例にとると、我がチームには足の速い選手が多いので機動力野球をする、というのが前者。機動力野球をするという方針がまずあって、それに合うような選手を集めたり育成したりするのが後者である。実際はの集団スポーツのチーム作りというのは、たいていこの二種類のやり方を混合させて行なわれる。たとえば、最初に大まかに方針を決めておき、選手の特性を見極めながら徐々に修正する、といったような。
 純粋に個人に与えられる力の大きさをaとし、チームの一員であることを条件に与えられる力の大きさをbとする。それぞれが私の要素と公の要素とに相当するわけである。
 これは個人に焦点を合わせた考え方だが、逆にチームに焦点を合わせた考え方をすることもできる。ある組織が、正義の戦士の組織としてふさわしいという認定を得たとして、そのふさわしさもまた二種類。一つは純粋にその組織が正しい戦いの方針を持っていることに対するもの、もう一つは、そのチームに正義の戦士たる条件を備えた人間がメンバーとして加わっており、そのメンバーが自由に戦うことを組織として許可し援助する、その行為に対してのものである。
 前者の条件によって組織に対して与えられる力の大きさをA、後者をBとすると、それぞれが公の要素と私の要素とに対応する。A=b、B=aである。そしてA+B(つまりa+b)が、総合的な戦隊の力となる。
 個人にしろチームにしろ、持てる力の最大限を10とする。百パーセントの正義であるという確信が存在している時に発揮される力、それが上限である。それを基準にして、A(つまりb)とB(つまりa)を数字としてはじき出す。それをそれぞれ公度、私度と呼ぶことにしたい。そして、この戦隊は「A公B私」である、という言い方をする。0≦A≦10、0≦B≦10、0≦A+B≦10、そして公度をX軸、私度をY軸にしてグラフにすれば、戦隊マップの完成である。
 ここまでが基本的な考え方である。後はそれを各作品に当てはめていけばよい。
 どの作品でも、肝心なのはやはり最初である。第1話で、戦士をスカウトする場面から始まる作品は多い。そこでは司令官は、こういう理由で君を戦士に選んだのだ、と説明する。スカウトされた方は、自分はこういう理由でこの組織に身を置くことにする、と承諾の言葉を述べる。もちろん、スカウトという行為が存在せず、戦士が自発的に集まって戦隊が結成され、その後で自主的に掟の制定が行なわれる作品もある。それは働きかける順番が違うだけで、考え方に本質的な違いはない。
 さてその際のセリフの内容もまた重要ではあるが、それに劣らず重要なのは、それを述べる時の態度や口調である。自分は正義のために戦いますと言っているのが、いかにも自信たっぷりの口調なのか、それとも勝つか負けるかは時の運、などという態度なのか。戦士本人の態度だけでなく、他の人からどう思われているのかも考慮に入れる必要がある。特に司令官は重要である。その人達が、正義の戦士としての使命について、どのような種類のものとして考えているのかをまず見る。つまり個人に属するものなのか組織に属するものなのか。次にそれぞれについて、どの程度の強さのものと思っているのか。思いの強さが公度私度の数値を決定する。
 ……いやそんな決め方で本当にいいのか、と思う人もいるかもしれない。「思いの強さ」などという、あやふやで主観的なものに頼るのではなく、もっと客観的な決め方はないのかと。
 たとえば、強化スーツを来て変身することのできる適合者は、特殊な体質を持った人間だけであり、それは現在地球上に五人しかいない、という設定の作品がある。この場合、戦士に欠員が出ても補充は不可能である。その一方、十人、二十人、あるいはもっとたくさんいる、という設定の作品もある。このような要素が私度に全く関係がないとはちょっと考えられない。前者であれば私度が高く、後者であれば低くなるという予想が成り立たないだろうか。
 組織に関しても、たとえば国連直属の地球防衛軍などといった巨大な組織に所属している戦隊は公度が高く、民間の科学者のもとに素人が集まった私設組織の戦隊は公度が低くなるような感じがする。
 実際はどうか。結論から先に言えば関連はあることはある。たたし、参考になるだけで、公度私度の数字の決定には、とても使えない。
戦隊マップ2  右図は戦隊マップで、戦士が超能力者の戦隊を丸、通常能力者のを三角、私設組織を黒、公設組織を赤で示した。戦士の適格者と不適格者の違いが連続的なものであれば通常能力、断続的なものであれば超能力とした。また劇中の描写では私設か公設かはっきりしない作品もあるが、とりあえず職員が三桁以上いれば公設と見なした。予想通りであれば、丸は上方、三角は下方、黒は右方、赤は左方に集中するはずであるが、そういう傾向がなくもない、という程度のものである。
 このほかにも、作品の物質的な世界設定と、公度私度の大きさで、何か結び付けられないものかと、ありとあらゆる可能性を検討してみたが、結局は何の成果も得られなかったことを、ここに記しておく。
 ここで、将棋の銀はなぜ横に動けないのか、という設問にもう一度帰りたい。銀が横に動けないのは、根拠のないことであった。強いて「根拠」という言葉を使いたいのであれば、人々の「銀は横に動けない」という思いが根拠となり、銀を横に動けなくしている、という言い方はできる。もう少し厳密な言い方をすると、将棋とはこういうゲームであるべき、という人々の思いがあり、横に動けない銀は動ける銀よりもそれに合致するのである。ではなぜ人々はそう思ったか。それ以上原因をさかのぼることはできない。
 ある作品が2公6私だとする。宇宙からの侵略者が地球にやって来た、そして彼我の戦力比とか、経済力、情報量、地政学的条件、そういうさまざまな条件を考慮に入れ、この状況下では2公6私の力で戦うのが最も有利に戦いを進められるという判断の下で2公6私の力が採用された、というのではない。その侵略者に対抗するためには、この力を用いて戦うしかない、というのが一つだけ与えられ、そしてそれは組織の規律2割、個人の自主性6割で動かすべき力であると人々は認識する。その結果として2公6私の力による戦いが始まるのである。
 だから、なぜこの作品は2公6私なのかと問われれば、人々がそう思ったからだ、という以外に答え方はない。原因をさかのぼり、最後にたどり着くのは、人間の意識である。国連に所属する戦隊だからという理由で強い規律を持つわけではない。この作品世界では国連は人々から強い信頼を置かれている機関なのだ、という描写がセットになって、はじめて強い規律を持つのである。客観的に見れば全く同じ条件が、ある作品では「単なる偶然」となり、別の作品では「天の配剤」とみなされる、ということもある。前者であれば自信は小さく、後者であれば大きくなる。それを分かつのは人間の認識であり、そしてそれこそが世界を動かす原動力となる。存在が意識を決定するのではない、意識が存在を決定するのである。
 心の中などというものが、不確かで曖昧だというのは事実である。意識は外側からは見えない。実際に起こした行動や、物理的な状況などから公度私度を機械的に判断できるのであれば確かに便利である。しかし無理なものは無理なのである。作品を何遍も何遍も見返す。そして考える。もし自分がこのキャラクターだったらどのように考えるだろうか。「俺はみんなと力を合わせて戦うぞ」という気と、「俺は俺のやり方で戦うぞ」という気が、それぞれどの程度の強さで自分の心の中で沸き上がってくるだろうか。想像力をフルに働かせてみれば、いずれ答えは出てこよう。そして次に、司令官の立場に立って、「みんなで力を合わせて戦おう」という気と、「各自のやり方で戦おう」という気が、それぞれどの程度の強さで起こるかについて、同じことをやれば、クロスチェックもできる。まあ、楽はできないということである。そもそも、なんらかの創作作品を鑑賞するということは、登場人物の心理を追うということであって、熱心なファンであれば誰でもやっていることである。その程度の手間暇を避けたがっていては話にならない。
 もちろん中には、御都合主義としか言いようのない作品もある。作中における正義の信念が、視聴者に対して強い説得力を持った作品もあれば、弱い説得力しか持たない作品もある。前者は後者よりも優れた作品である。しかしそれは本稿の考察の対象ではない。無論、劣った作品に対する考察は、優れた作品に対する考察よりも難しい。しかしそんなことに文句を言っても始まらない。考察しなければならないのは、正義の信念の、視聴者に対する説得力の強弱ではなく、登場人物に対する説得力の強弱である。
 ……ただそれにしても、これでは取っかかりがなさすぎだと思う人もいるかもしれない。
 以上に述べたような議論は、当然単体ヒーロー物や、戦隊以外の集団ヒーロー物にも応用できる。しかし戦隊物の場合はそれらと比べて大きなアドバンテージがある。戦士全員が対等同格であるという大原則が存在するということである。これを利用しない手はない。
 たとえば五人の人間が戦士に選ばれたとする。その五人が五人とも、特殊な血筋の持ち主であったとすれば、偶然そうなった可能性などほぼゼロであるから、これはもう血筋が条件で戦士に選ばれたと確定してよい。「血筋を理由に戦士を選んだ」という、セリフなりナレーションなりが一度も作中に出てこなかったとしてもである。さらに、やはり同じ特殊な血筋の持ち主でありながら、戦士に選ばれなかった人間はいるのか。いたとすれば、その理由はなにかというふうに話を進めていけば、血筋だけで選ばれたのか、血筋以外に他に条件があって戦士の選出が行なわれたかが分かる。戦士の条件を完全に確定するのも、それほど難しい作業ではない。これをとっかかりにすれば話は進めやすくなる。
 その条件を公の要素と私の要素に分けるのが次の作業である。それを分かつものが、言語による伝達可能性であることについては、前章で述べた。つまり、「僕はこういう条件を満たしたから戦士に選ばれた。君も満たしているから、戦士の適格者であるはず」という会話が成立するのが前者であり、「君も同じ条件を満たしているが、だからといって君が適格者であるかどうかは僕は知らない」というふうになるのが後者である。仲間同士の会話、あるいは司令官からの説明といった形で、言葉で伝え合うことができるのか。それとも言葉は使えず、一人一人が自分の体験を通じて理解するしかないのか。自分は正義の戦士であるという思いが頭を通じて魂に届いたのか体を通じて魂に届いたのか、その違いである。
 戦隊物以外の集団ヒーロー物にあっては、全員が対等と決まっているわけではない。主人公は実質的に一人だけであり、残りは背景扱いという作品もある。それが悪いわけではない。中には名作と呼ばれている作品もある。ただ、戦隊シリーズではそういうことはやらない。根拠があってのことではなく、伝統だからである。
 ひょっとしたら戦隊シリーズでも、いずれはそのような作品が現れるのかもしれない。そうなったらその時に考えることになるであろう。

2.実際の行動からのアプローチ

 将棋のルールを知るには二つの方法がある。一つはルールの本を読んだり人に聞いたりすることであり、もう一つは実際の試合を観戦することである。前者に対応するのが前節であり、後者に対応するのが本節である。前者は銀が横に動けない原因であり、その根拠は心の中である。後者は銀が横に動けない結果であり、それは実際の行動として現れる。
 本節で行なうのは、劇中における登場人物の行動の観察である。話の進め方としては、ます公私要素の合計を出し、しかる後に公私の比率を出すのが分かりやすいと思われる。
 公私合計が10、つまり満点とはどのような状態を指すのか。自分が戦士としてふさわしいことに何の疑念もなく、自分の持てる力すべてを正義の実現のために出し尽くす。生還確率の低い危険な任務に進んで志願し、その結果戦死したところで何の悔いも残らない。これが上限である。
 そして10より少なくなるに従って、死にたくない、俺にはまだやりたいことがあるんだ、という人間的な面が出てくることになる。
 よく、プロ野球選手などが軽々しく「自分にとって野球は人生そのものだ」などと言ったりする。もちろんそれは比喩であって、野球選手が試合に負けたからといって死ぬわけではない。戦士にとっては敗北は死を意味する。百パーセント正義のために生きる戦士というのは、本当に人生のすべてを正義の為に費やすことが求められる。そしてそれは、地上に永遠の平和がもたらされるまで続く。最終回に、悪の帝国を滅ぼしてもそこで使命が完了するわけではない。
 ということは、戦士の人生の中で「戦うこと」「戦い以外のこと」がそれぞれどのくらいの割合を占めているか。この両者を比較するのが一番わかりやすいであろう。
 戦意が10に満たないというのは、戦いの他に満足感を与えてくれるものがあるからである。戦士といっても、毎日戦いばかりしているわけではない。会社に行って仕事をしたり学校に通ったり、趣味を持っている者も多い。それは、単なる生活費の捻出のためだとか時間つぶしだとかであり、戦いのために犠牲にする必要が生ずれば即座に捨てられるようなものなのか。それとも、やり甲斐を感じてやっていることなのか。恋人や家族がいて、戦いが終わったら故郷に帰って結婚して安らかな日々を過ごしたいと願いながら戦っている戦士がいる一方で、別の作品では、戦士にとっては家族と束の間の団欒の時を過ごすことすら邪魔とみなされていたりする。
 ただ、「戦い」とはいっても、それが使命感・正義感に基づいたものであるとは限らない。たとえば、自分の両親を悪の組織に殺されている人間が登場する作品がある。そして、悪の組織と戦っているものの、それはあくまでも自分の復讐感情を満足させるためであり、本懐を遂げる過程で無関係な人間に巻き添えを食わせることになっても知ったことではない、と考えているということはありうる。そうであれば、これは公度私度に入れられるようなものではない。またその逆のパターンもある。ヒーローが一般犯罪に巻き込まれる話というのはたまにあるし、中には悪の組織なんかと戦うよりも、人間社会の矛盾と戦うほうがよっぽど手強いと思わせるような話すらある。悪の組織を壊滅させることだけがヒーローの任務ではない。
 戦うことと戦い以外のこと、というよりは、使命感に基づいた行動とそれ以外の行動、と言い直したほうがいいかもしれない。
 ヒーロー物においては「愛する者を守るために戦う」というのはよく使われるセリフである。だがこれが意外に厄介なのである。その愛する者が悪い人だったらどうするのか。愛する者を守るために戦うのは結構なことだが、ではどのような信念や根拠に基づいて、そう思うのか。その点を疎かにしておいて、単に愛する者を守るために戦うと言っているだけでは、それは腹が減ったら飯を食い、眠くなったら寝るのと何も変わるところはない。単に己の欲求を満足させる行為にしか過ぎないという点で。
 上限について論じたのだから、下限についても考えておかなくてはなるまい。
 戦いがテーマの番組で、公度も私度も0のヒーローが果たしてありうるのか。第1話の時点では0というのはたまにある。自分は正義のために戦うのだという確信の全くないまま、否応もなく戦いに巻き込まれる主人公というのがそれである。ただ、そんなのが戦士をやっていて、話が一年もつとは思えず、どうせ途中で「成長」し、やがて人々を守って戦うことに正義を見出すことにならざるをえないだろう。もし最終話の時点でやっぱり0のままであるヒーローがいたとしたら、その番組は社会現象と呼ばれるほどの大ヒット作になることは間違いない。(*1) まあ戦隊の場合は下限は3か4ぐらいに見積もっておけばよかろう。

 次に、公と私の比率の判定。
 戦士が組織の命令に従って行動した回数と、自主的な判断で行動した回数をそれぞれ数え、和を分母にして割り算をすればいいのだから、「思いの強さ」などという、曖昧なものを相手にするよりずっと楽な作業のように思える。しかしそれほど簡単なわけでもない。
 こういう事件が起きたら、こういうふうに対処せよと、あらかじめ司令官に言われていた。そして実際にそういう事件が起きたので、そうした。これは明らかに公の戦いである。だがこの場合、その司令官が指示を下したシーンが画面上で省略されていたとする。視聴者の目にはまるで戦士が自主的に行動したかのように映る。
 そういうケースでも、注意深く見ていけば、誤判別は避けられるだろう。問題は、本当に判別不能のケースが存在することである。つまり、個人の判断とチームの判断が、偶然一致している場合である。これについては少し詳しく触れておきたい。
 もともと「勝ちたい」という点では、全員の意見は一致している(負けようと思って戦う奴はいない)。そして勝つための選択肢など、それほどたくさんあるわけではない。選択肢が一つしかない場合であれば、全員で一致した行動をとろうと意図していようが意図していまいが、全員が一致した行動をとる結果になる。また選択肢が複数あっても少なければ、個人の意志とチーム全体の意志とが偶然一致することは頻繁に起こる。そしてその時はどんな行動が劇中で生じても、それが公の戦いなのか私の戦いなのか区別することはできない。
 たとえば、巨大ロボの操縦というのは一体どういう仕組みになっているのだろうか。劇中では何の説明もない作品が多いのだが、操縦者がそれぞれ好き勝手にハンドルやスイッチを操作し、ロボの両腕両脚がバラバラに動いたりするようなシーンなど見たことがない。もしそれが、五人全員が定められた手順に従って操縦する以外に動かす方法はない、というものであれば(多分そうだと思うが)、それを公私要素の計算に入れることはできないだろう。合同必殺技についても同じことが言える。
 合同必殺技といえば、戦隊の本質はチームワークであると考える人にとってのシンボル的存在である。それは、メンバー全員が揃わなくては繰り出すことはできず、毎週怪人にとどめを刺すときに使う大技である。そういうシーンが毎週出てくることは、「全員が力を合わせてこそ戦隊」という印象を視聴者に強く抱かせることになる。しかもそれを繰り出す手順はルーチンワーク化しているので、個人の自主性を押さえつけるという印象もない。結果的に、自由と規律の二律背反という問題を、視聴者の目から隠蔽する役割を果たしてきたような気がする。実際の戦隊の戦いがそのようなものでないことは、前章で論じた。
 話を元に戻すと、意見が同じであれば公私の区別はできない。ということは、意見の違いが劇中ではっきりと描かれているようなシーンこそが、公度私度の算定に使えるということである。司令官が指示を出しているのに、それに背いて各戦士が勝手な行動を起こす。あるいは戦士が「納得はできません。でも命令には従います」と司令官の前で戦士がわざわざ口にする。そのような場面を出来る限り集める。それを詳細に検討し、この戦隊では、こういうケースは戦士の自主性で、こういうケースは司令官の命令で動くのだ、という判断を下すことができる。
 重い決断を迫られているシーンほど、判断材料としての価値も高い。たとえば、百人の人間が人質になるという事件が起きた。そして、一人を犠牲にすれば、残りの九十九人を安全・確実に救出できる作戦がある。さてどうするか。一人を見捨てて九十九人を救うのか、それとも九十九人を危険な目にさらしてでも、なお残りの一人を助けようとするのか。
 どちらが正解と、決められるような問題では絶対にない。しかしどちらかに決めなくてはならない。実際の戦隊シリーズでもたまに目にする話である。指揮官を含め、全員の意見がなかなかまとまらず、みんな悩んだり迷ったりして時間を空費する。こういう時こそ各人が普段からどのような気持ちで戦いに臨んでいたかが露わになる。つまり、個人としての責任感と、チームの一員としての責任感。それぞれをどのように感じていたか、という。
 そういう意味では、もともと友達だった者が集まって結成された戦隊は、結構判定が難しい。気が合う者同士だから、意見の対立というのがそれほど出てこないからである。それでも意見の衝突が完全に起こらないということはないし、どうしても分からなければ公私半々ということにしておけば文句も出るまいと思われる。

 実践編では、スーパー戦隊シリーズの歴代作品の一つ一つについて検討を加え、数字をつけていくことにする。